第三章 詰めすぎたピース

(24)危ない香り

激戦から一週間ほどした二月も八日の深夜、のどに強い渇きを覚えてリビングへと降りる。

学年末試験も目前ということで、内田が色々と数学を聞きに来て、それに対応したせいだろうか。

寒い中、袢纏はんてんかぶり、階下へと向かう。


その時であった、強烈な違和感に襲われたのは。

技令ではないのであるが、強烈な気配を感じる。

鼻腔びくうを突く異様な臭気がそれを増長し、緊張を増す。

気配を探る。

恐らく、家内に侵入を許している。

疲れからか、内田は起きてくる気配もない。覚悟を決める。


と、ここまで困惑したところで、ふと我に返る。

よくよく考えれば、結界を突破されていればその時点で気付くはずである。

それに、仮に侵入したとして所在がなぜ、リビングなのか。

明らかに、おかしな点が多すぎる。


武装を解いて、リビングへと侵入する。

灯りも最小限にしてあるのか、影だけが薄っすらと伸びている。

そのような中で気配を消し、おもむろにカウンターへとおどり出る。


「内田、夜中にテロ行為は止めるんだ」


完全に気が抜けていたのか、び上がるように振り向いた内田の顔は、それこそ完熟の林檎りんごやトマトを思わせるように真っ赤であった。

しかし、そのような彼女の稀有けうな表情よりも、その周囲に広がる阿鼻叫喚あびきょうかんの景色の方が、真っ直ぐに目に入った。


飛び散った黒い結晶、流し場に散乱した調理器具の憐れ、壁にこべり付く焦げの跡。

見れば、明らかに彼女が苦手とする行為を、自力で行っていたとうかがわせる証拠だ。


「ひ、博貴、ど、どうされたのですか」

「それはこっちが聞きたい。こんな時間にキッチンを荒らすなんて、どういう心算つもりなんだ」

「博貴といえど、この状況を見られた以上、生かしてお返しする訳にはいきません。申し訳ございませんが、覚悟してください」


内田が殺気をき出しにする。

とはいえ、エプロンにお玉装備の姿ですごまれたところで、何の脅威もない。

むしろ、その焼けただれた臭気の先に、かすかに浮かぶ香りを鑑みて、私はできるだけ優しく、彼女に語りかけた。


「まあ、その、なんだ。気持ちは分かるんだが、チョコレートの加工法が分からないなら、教えるのはやぶさかではないんだが」


彼女の殺気はまない。

しかし、彼女の目的が明確である以上、そこを突くより他に勝機はない。

ただ只管ひたすらにらみ合いが続いた後、彼女はやっとのことで、私を受け入れてくれた。




「チョコレートを加工するなら、直接、火に当てたり、熱した鍋に放り込んだりするのは駄目だめなんだ。こうやって、まずはお湯を沸かす。それから始めよう」


深夜四時に唐突とうとつとして始まった料理教室にどれだけの意味があるのだろうか。

とりあえずは、自分の延命に必要な行為である。

だが、それ以上に気になるのは、内田がこの行為を何の為に行っているかである。


「しかし博貴、温度を上げるのであれば、炎技令を使用した方が早くありませんか」

「いや、物には融点と燃焼点がある。チョコレートの場合、直ぐに融点を超えてげてしまう。げると、チョコレートの持つ味も香りも死んでしまうから、こうやってゆっくりした方法を使うんだ」


うなずきながら、内田は熱心にメモを取る。

熱心さは勉強中と同じであり、そこに一点の曇りもない。

それ故に、気になるのである。

彼女が何にき立てられているのか、を。


「博貴、これだけチョコレート菓子にお詳しいということは、博貴もバレンタインデーにチョコレートを渡されるのですか」


だからこそ、内田からこの一言を聞いた時、持っていた雪平ゆきひら鍋をひっくり返しそうになった。


「な、なんでそうなるんだよ。そんなの、おかしいだろ」

「どういう意味ですか、博貴。大切な人にチョコレートを贈るというのであれば、それは、立派なことではありませんか」


私の困惑に、内田は真顔で返す。

この数ヶ月で度々たびたびこうした場面に出くわしたが、今日ほどに驚いたことはない。


「待て、内田。バレンタインデーについて、何を知っているのか、説明してくれ。私の知識不足の可能性が高い」

「はあ。私も今日、山ノ井さんに教えていただいて知ったばかりなのですが、大切な人にチョコレートを贈る日なのではないのですか」


内田の話を聞いて納得する。

成程なるほど、山ノ井にも内田にも悪意はないのだろうが、明らかに世間との間に認識の齟齬そごを起こす言い方である。

大切な人に、というのも間違ってはいないし、チョコレートを渡すと言う表現方法も正しい。

ただ、そこにあるべき、大切な部分が抜けている。


「いいか、内田。今からバレンタインデーについて、日米の異文化論から説明するから聞いてくれ」

「はい。分かりました」


内田が目を丸くする。

それでも、私は続けなければならない。


「バレンタインデーは日本がアメリカから取り入れた文化で、元々は男性が女性に求婚する日だった」


この一言で、内田の顔が紅潮する。

漫画であれば、爆発音がとどろいたことだろう。


だが、続ける。


「それを知ったチョコレート業界が、この日を日本に取り入れるにあたって、女性が男性にチョコレートを渡して愛をげる日に改変した」


金魚のように口をパクパクさせる内田。

最初にがした量からして、一人前ではない。


続ける。


「それから年月が経過して、今では比較的自由に、女性が日頃お世話になっている人や大切な人にチョコレートを渡すようにもなってきた。ただ、それでも私がチョコレートを例えば、辻杜先生に渡せば、ちょっとした事件になるな。お前、俺に気があるのか、って」


事実、昨年の当該日とうがいび前々日に、手作りしたチョコレート菓子を図書部で配ったところ、辻杜先生が生暖かい目で見えていたのを生々しく覚えている。


私の最後の段で、やっと平静を取り戻したのか、内田が穏やかさを演じながらうなずいた。


「それで、内田は誰に配ろうとしたんだ。それによって、作る物が変わって来るんだが」


内田が再びうつむく。

内田のことであるから、それこそ私の母に贈るか、墓前に供えるために作っているのだろうと思っていたのだが、どうやら違うらしい。

空気の歪曲わいきょくが目に見えるようであり、ここで攻め手を間違えれば、大惨事がれなくついて来るのは火を見るより明らかだ。

ゆえに、平生へいぜいと変転の彼岸に揺らぐ好奇心を抑え込み、私は下手に彼女を刺激するのを回避する。


「まあ、とりあえず無難なものでも作るとするか。プレゼントで食あたりまで付いてたら、サービスのし過ぎになるしな」


私の一言に、内田の顔は不服一色になる。

それでも、彼女の何か触れてはいけないものに触れ、パズルを壊してしまう訳にはいかない。

そうした気持ちをぐっと奥に仕舞しまい込み、私は再び黒褐色こくかっしょくうずに身をゆだねた。

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