第24話 なぞの紳士

 僕は隣に座っているみゆうさんをチラッと見た。駅から500メートルほど離れた児童公園のベンチに座ってガムを噛んでいる。僕をからかって精神的にズタボロにした悪魔は何食わぬ顔でまた晦日の夕刻に僕の傍にいた。まだまだ残暑が厳しい季節で、だいぶ伸びてきた夕暮れ時の影の長さに秋の気配は感じられない。


 みゆうさんは勢いよくベンチから立ち上がると伸びをする。今日はお洒落なトレーニングウェアを着ていた。足元もジョギングシューズ。一応は事態を真剣に捉えるようになったらしい。屈伸をしたり、アキレス腱を伸ばしたりしながら、鼻歌を歌っていた。


 僕はというと、いつでも逃げ出せるようにしているものの、東屋の下のテーブルに鞄を開いて置いていて手を開いたり閉じたりしていた。時折ノートパソコンのキーボードに指を置いて、普段使っているものとは異なるキーの間隔や配列に慣れるように思いついた言葉をタイピングする。


 もちろん電源が入っておらずモニターも暗いままので何も打ち出されたりはしない。もし画面に表示されてみゆうさんに見られたら何を言われるか分からない言葉となるように指を走らせた。


 せっかく僕が逃げ回る以外のことができるようになったのだから試してみようというわけだった。登場人物に力を与えることができるとは言っても、普通の人をスーパーマンに変身させることができる訳ではないらしい。瞬時に相手が誰なのか思い出して、その人物に合った力を与える文章を即興で打ち込む必要がある。


 効率を考えれば追いかけっこをしている方がいいような気がしなくもない。今回は先日のごちゃごちゃした通りのでの経験を生かして、電車の高架下の近くにいる。この辺りの線路は地形のせいかそれほど高いところにないので直交する道路はトンネル状になっている。道路高は2メートルちょっとしかない。説鬼が跳ねると頭がぶつかってうまく進めないはずだった。


 それでも、僕がキーボードに向かい合っているのは、僕の作品の登場人物たちのためだ。ごく普通の一般人を召喚してしまったら、彼か彼女は僕を守るために身を挺することをはばからない。僕の目の前で無残なことになるのを見過ごすつもりはなかった。


 退屈したのか、みゆうさんはブランコに乗ると前後に揺らし始める。ゆっくりと漕ぎながら少しずつ藍色に変わっていく空を見上げていた。子供っぽい顔つきなのでそんな姿が意外と似合っている。まるで体だけが大きくなった女の子が家に帰りたくなくて時間を潰しているようだった。


 みゆうさんがぱっとブランコから飛び降りると僕の近くに寄ってくる。もうすぐ日没だった。人気のなかった公園の入り口に人が入ってくる。僕はそちらの方をちらりと見た。変異が始まれば普通の人たちの存在は消えてしまうので、誰が近くに居ようと巻き沿いにする心配はないのだが、それでもどんな人が来たのかは気になる。


 その人物は僕の興味を引くに十分な格好をしていた。この暑さだというのに身にぴったりとしたダークスーツを着ている。それだけでも目立つのに細くきれいに巻いたこうもり傘を手にして、片目にはモノクルをはめていた。日本ではちょっとお目にかかれない格好の初老の男性はゆったりとした足取りで僕の方に向かってくる。


 東屋でちょっと一服でもしようというのだろうか? 公園は禁煙なのだが足元には吸い殻がいくつか落ちている。そういった喫煙者なのかもしれない。しかし、近づいてくる男性の格好には紙巻は似合わない。葉巻かパイプでもやっていそうな印象だ。


 そして、世界が反転するかのようないつもの違和感を感じて僕は身構える。しかし、驚くべきことにノートパソコンは光を放っていなかった。当然、その上にはあの赤とオレンジのダイスも浮かんではいない。僕は慌てた。こんなタイミングで故障したのかもしれない。僕の背筋は凍り付いた。


 このノートパソコンが生きているのかいないのか普段の状態だと判別する術がない。どうやったら使える状態なのかどうかを判別できるのかきちんと紫苑さんに聞いておくべきだった。そんな悔恨の思いが沸き上がる。一方で紫苑さんが僕がこんな危機に陥る状態を放置するとも思えないという念も浮かぶ。


 じゃり、という砂を踏む音がして僕はノートパソコンから目を上げる。僕の後方からはみゆうさんが息をのむ気配を感じた。みゆうさんが驚くのも無理はない。なぜなら先ほどの紳士ふうの男性がすぐ近くにいて、僕のことを少々険のある目つきで観察していたからだ。


 先ほど体に感じたものは間違いなく変異が発生していたことを告げていた。東屋の屋根にさえぎられて直接見ることはできないが、周囲には赤い光が降り注いでいる。きっと針のように細くて禍々しい感じの赤い月が上っているはずだった。僕は首を巡らせて薄気味の悪い説鬼がどこからか現れないか確認する。


 とりあえず視界内には気色悪い大きな爪をもった化け物の姿がないことを確認して、目の前の初老の男性に視線を戻す。男は彫りの深い顔に皮肉な笑みをたたえながら切り出した。

「分身召喚者の方ですな。はじめまして」

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