第22話 不覚の理由

 これでラブコメが選ばれても大丈夫だな。そうやって僕が喜んでいられたのは束の間だった。あることに思い至ってしまったからだ。そして、そのことを口にするのにはかなりの勇気が必要だった。この穏やかな雰囲気をぶち壊しかねない。でも、結局僕はその言葉を紫苑さんに聞かずにはいられなかった。


「このパソコンで力を与えることができるのなら、どうして本庄さんは亡くなったのですか?」

 気まずい静寂の帳が下りる。今では見ることが珍しくなった柱時計のチクタク時を刻む音が聞こえるほどだった。


「それは……本庄さんはお酒がかなりお好きでした。そして、塩気の強いものもよく召し上がっていたようです。それで血圧が高めだったのですが、折悪く、晦日に……。以前から健康には気を遣うようにしつこく言っていたのですけれど、お年もお年でしたから」


「お幾つだったんですか?」

「58です」

「じゃあ、まだ若いじゃないですか」

「そうですわね」

 紫苑さんは面を伏せる。


 顔を上げた紫苑さんはすっと立ち上がり暇を告げた。

「お邪魔いたしました。それでは新巻さん。健康にはくれぐれも気を付けてくださいね」

「はあ。わかりました」


 気のない返事になってしまったのは仕方ない。それほど健康に気を使っているわけでもないけれど、僕の医学的な寿命はおそらくあと数十年はあるはずだ。その命を脅かすのは動脈硬化でも心臓発作でもない。説鬼の爪が僕に届いて体を切り裂くほうがよっぽど切実な脅威だし、そうなったのは他でもない紫苑さんのせいなのだ。


 リビングに戻ってテーブルの上のカップを片付ける。人が一人居なくなるだけでぐっと寂しさが増した部屋を見渡した。はあ、今日も疲れた。足はパンパンだし精神的な疲労も大きい。夏の間はシャワーだけで済ませることが多いが、今日はお湯を張ってゆっくりと湯船につかることにする。


 湯船の中で足を曲げ伸ばししたり、ふくらはぎを揉んだりした後で風呂おけの縁に頭をもたせかけてぼーっとした。本庄さんと紫苑さんはどういう関係だったのだろうか? ぼんやりとしながら考える。睫毛を伏せた紫苑さんの顔によぎった寂寥と哀惜に軽い嫉妬を覚える。


 もし、今度の戦いで僕が命を落としたら、紫苑さんはあんな表情をしてくれるのだろうか。すぐに僕のことを忘れて新しい人を探すような気もする。薄情な人ではないと感じるのだけれど、僕が望んでいるほど親しいわけじゃない。よく考えたら僕は紫苑さんのことを何も知らないに等しいのだ。


 客観的に見れば、月に1回お茶をするだけの関係だ。茶飲み友達というと高齢者同士の付き合いのような印象だし、なんと言えばいいのだろう。顔見知り? 知人? 同僚? なんか全てしっくりとこない。やっぱり、せめて友人と胸を張れる関係ぐらいにはなりたいものだ。


 1時間ぐらい放心して浴室から出てきたときにはすっかり手が皴しわになっていた。そのまま寝てしまおうかと思ったが、紫苑さんの言ったことを思い出し何か食べることにする。そうはいっても今から何か作るのは面倒くさい。冷凍庫からうどんを一玉取り出して電子レンジにかける。


 小ねぎを刻んで納豆と卵を入れてよくかき混ぜ、熱々のうどんを放り込みぐるぐると箸で絡めた。野菜が足りていないが蛋白質は十分だ。筋肉の疲労回復を促進してくれることを期待しながら、麺つゆをかけて食べる。出汁を取ったほうがうまいのは分かっているがもうそんな気力がなかった。ささっと片付け身支度をしてベッドに入る。すぐに眠りに落ちた。


 翌日、走りに行こうとしたが筋肉痛でそれどころではなかった。階段を下りるのさえ苦労するぐらいなので今日はお休みすることにする。無理をして怪我でもしたら大変だ。情けないことに痛いのは脚だけでなく、お腹や背中、それに腕もだった。やはりジョギングと必死に逃げるのは違うのだと思い知らされる。


 スマートフォンを確認するとみゆうさんから連絡があった。メッセージの内容は今日は休むという連絡で、この体調で一人で店を切り盛りしなければならない。以前は一人でやっていたのだから出来なくはないのだけれど、この全身の痛みでは少々つらい。仕方なく悲鳴をあげる体を騙しながら一人で営業した。


 みゆうさんが次にアルバイトに来たのは結局3日後だった。僕は偉そうに説教っぽいことを言う。

「やっぱり遊びじゃないことが分かったでしょ?」

「別に私は平気でしたけど」


「じゃあ、なんで数日休んだの? あの日も早く帰っちゃうし」

「別にいいじゃないですか。走って汗もかいたし早くシャワーを浴びたかっただけです」

 みゆうさんはケロリとして言う。


「それに私にしばらく晦日は店長と一緒にいるように言ったのはあの女の人ですよ」

「紫苑さん」

「そう。その紫苑さんが言ったんじゃないですか。それで、まだ一緒にいる必要があるって言ってました?」


 僕はその質問に慌てた。その様子を見て、みゆうさんは白い眼をする。

「まさかと思いますけど?」

「ごめん。聞くのを忘れた」

 みゆうさんはやれやれというように首を振ったのだった。

 

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