第19話 さかえ小路

 くるくると回ったダイスが止まって示した数字は48。先日の番号に近い。数字が溶けあい弾けた跡には、手にチョコドーナツを持った俺と同年代っぽい女性が立っていた。ひっつめた髪を後ろに束ね、肩からは小柄な体に不釣り合いな大きなバッグを提げている。メガネをかけた理知的な顔には少々疲れが見て取れた。


 やばい。やっちまった。ついにラブコメを引いちまった。きっと僕の顔は血の気が引いていることだろう。とりあえず鞄をばちんと閉じて走る態勢をとる。すると、小柄な女性は僕の手を取った。

「こっちよ。走って!」

 女性は僕の手を引いて走り出す。


「ど、どういうこと? 私の王子様は?」

 間抜けなことを言っているみゆうさんに僕は怒鳴った。

「走れっ!」

 僕は必死で空いている方の手をみゆうさんの手に伸ばしつかむ。


 眼鏡の女性は手にしたスマートフォンを見ながら走っていた。最初は僕に引っ張られる形だったみゆうさんはすぐに僕より前に出る。若い女性二人に手を取られて走っている僕はまさに両手に花だった。いや、そんなことを考えている場合じゃない。後ろの方からはシャシャシャというもうおなじみになった奇声が聞こえてくる。


 ぱたっ、ぱたっ。湿ったものを打ち付けるような音も聞こえてくる。後ろを振り返ると4体の説鬼がぴょんぴょん跳ねながら僕たちを追いかけてきていた。さっきの音は説鬼の足が地面に着く時の音らしい。説鬼は走るということができないようだった。高く飛び跳ねることができるが余り前には進まない。そこまで確認すると僕は前に向き直る。


「走りにくいので手を離してもらえますか?」

 僕が言うと二人は手を離す。眼鏡の女性が掴んでいた手に違和感を感じてみると黒いものがついている。チョコレートだった。どうやらチョコドーナツが溶けてそれが僕の手に移ったらしい。


 チョコドーナツの本体はどうなったかというと眼鏡の女性が咥えていた。僕の手を離したので再びチョコドーナツは女性の右手に戻る。心配していたが、みゆうさんは僕の前を軽快に走っていた。眼鏡の女性、みゆうさん、僕の順で他の人気の消えた大通りを駆けてゆく。


 いつもなら人が多くてとてもじゃないが走れるどころじゃない繁華街の歩道に誰一人としていないのは不思議な気分だった。人は消えているがそれ以外のものは残っている。放置された自転車や立て看板が邪魔だった。ぱたっ。ぱたっ。という音が段々近づいてくる感じがして、僕は振り返りたくなったがじっとこらえる。


 段々と近づいてくる足音が否が応でも僕の不安を掻き立てる。僕の心臓はドキドキと激しい動悸を繰り返し、肺は燃えているようだった。いつものジョギングのように落ち着いて走ることが出来ず、ペースも乱れ気味だ。最初にダイスを振ってからどれくらいたっただろう? 5分ぐらいか? あとまだ5分も走れるだろうか?


 道をまっすぐ走っていた眼鏡の女性が叫ぶ。

「次の路地を左へ!」

 僕は顔をしかめた。狭い路地の左右に鰻の寝床のような飲み屋がひしめく通称のんべえ小路。人二人がすれ違うのがやっとの細い路地だ。当然、お店の電飾看板が立ち並んでいてより走りにくいはずだった。


 それでも眼鏡の女性についていくしかない。彼女の声はしっかりしていたし、自信に満ち溢れていた。緊急時にとっさの判断をすることに慣れている人の声だ。眼鏡の女性が角を曲がる。次いでみゆうさんが角を曲がって、僕もその後に続いた。記憶のとおり左右からは看板や提灯が路上にはみ出しているし電柱やエアコンの室外機も通行を阻んでいる。


 真っすぐに走ることができなくなってややスピードを落とした僕の背中に異様な音が聞こえてきた。ガンッ。バチバチバチバチ。そして、パタッパタッという音が途切れる。迷ったが僕はちょっとだけ振り返った。説鬼たちはこの小道の入口にかかっていた「さかえ小路」の看板と電気の架空線に引っかかって火花を散らしている。


 そういうことか。道が狭すぎて無電柱化できていないんだ。人が通るには支障がないが、飛び跳ねないと移動できない説鬼にとってみれば障害物競争のコースのようなものだろう。僕が走るスピードを落としかけると叱咤の声が僕を叩く。

「走るのをやめないで。あれくらいじゃ奴らを止められない」


 僕は疲れた足に再び走ることを命じた。肋骨に当たる鞄が痛い。もう一度振り返って見ると、派手に火花をまき散らしていた説鬼たちは、飛び跳ねる高さを低くして小刻みに揺れていた。進むスピードは落ちているものの相変わらず僕らを追いかけようという執念が見て取れる。


 僕たちは再び走り出す。さかえ小路はそれほど長い通りではない。せいぜい200メートルほどだった。そこを通り抜けるとまた車が通れる広い道に突き当たる。人の姿は消えていたが、車は路上に残ったままだ。眼鏡の彼女は広い道に出ると右に曲がって、歩道と車道を隔てる白線の上を走り始める。


 それについて行こうとするが僕の足は鉛のようになってもう早く走ることができない。よろめくように歩くのがやっとだった。再びぱたっ、ぱたっ、というリズミカルな音が響き始める。奴らが通りに出てきたのだった。僕は必死になるが足はもう動かなかった。


 先頭を走っていた眼鏡の女性が戻ってくると僕の手を引き始める。

「諦めないで」

「もう足が動かない」

 眼鏡の女性の顔に決意が浮かぶ。


 肩から提げていた重そうな鞄を両手に持つと僕の後ろに出た。やめろ。

「ミツケタ。ミツケタ」

 僕の耳に耳障りな声が聞こえる。僕の目の前で飛び上がった説鬼の腕が振り下ろされた。


 

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