第5話 すれ違い

 朝5時には目を覚ます。ウチの旦那さんの出勤は早い。もう少し家族のための時間をつくってほしいと願っているのだけれど。見送りに玄関まで行く。結婚してからずっと続けていることだ。

 「気をつけて」

と言う私に、旦那は取ってつけたような声で、

「行ってきます」

と言って出かけていく。振り返ることはない。後ろ手で扉を閉めて、彼は駅へと歩みを進める。

 昔は、「行ってらっしゃい♡」なんて言って、ハグしてたっけ。唇を重ねてたっけ。思い出してみて恥ずかしくなる。もう遠い昔の話だ。

 そんないつも通りのやり取りを終えてリビングに向かう。扉を手にかけて、ドキッとした。中からガサガサと音が聞こえる。一瞬、「ドロボウ?」と思ったのだけれど、すぐに中から「ゲプ~~っ」と汚い音がして、私を安心させた。

 「ガチャリ」とドアノブを回し、リビングに入る。

 「ちょ…ちょっとアンタ、何してんのよ?」

私は思わず、声をあげた。昨日の天使が勝手に冷蔵庫のものを食べているのだ。それならまだ良い。食べカスが床に散乱している。これならドロボウが入った後の方がまだきれいだろう。

 「ママ、何してんの?じゃないわよ。いいかげんにしなさいよ!」

 なっ…なんなの、この天使。人様の家の冷蔵庫を勝手に物色しておいて、逆ギレなんて許せない!私は強い口調で罵った。

「人の家の冷蔵庫を勝手に開けて、何なのよ!天使のクセに、ドロボウみたいなこと、してんじゃないの!」

 それを聞いて、天使は全身、りんごみたいに真っ赤になって地団駄踏んだ。

「何がドロボウよ!ドロボウみたいにしてるのはどっちよ~~~!ムキ~~~っ!」

 売り言葉に買い言葉。私も負けじと言葉を吐いた。

「私のどこがドロボウなのよ?突然やってきて、そんなことして!あんた、本当に何しに来たのよ!」

「何度も言ってるじゃない!それはママを幸せにするためにって」

そう言う天使の言葉を遮って、私は言葉を続けた。

「あんたなんかに、私は幸せにしてもらいたくない!」

しばし、リビングに沈黙が訪れた。真っ赤なりんごは、いつの間にかドライフルーツのように乾いてしまったようだった。

「うん…、そうだね。ごめんなさい。ママを怒らせてごめんなさい」

 身体の大きな天使は、一回り小さくなったように背中を丸めて俯いた。私はまだ怒りが収まらず、けれど、どう言葉を紡いで良いかもわからず、黙ったままでいた。

 すると、天使が俯いたまま、聞こえるか聞こえないかの小さな声でつぶやいた。

「ママと食べようと思ったの、ケーキ」

私は思わず聞き返す。

「えっ…?」

「だから、ケーキ。冷蔵庫にあったでしょ?2つ、あったでしょ?」

 私は言葉を失った。昨日、子どもたちに食べさせたケーキ。あれが天使が用意したものであることは、なんとなく察しがついていた。だが、そのケーキにそんな意図があることを私は知る由もなかった。

「勝手に食べたでしょ?ケーキ…。だから、私も悔しくて、冷蔵庫の中のものを食べた。でも、ごめんさいしなきゃね」

 天使はひどく落ち込んだ様子でリビングを出ていこうとした。

 「ごめんなさい。ひどいこと言って。本当にごめんなさい」

私の口は無意識に言葉を発していた。

 「ママはさ、いつもだれかのため、だれかのために自分を犠牲にしているように思っているじゃない?でも、その実、悪いのは周囲の人だ、とも思ってるんだよね…」

 私は自分の心を見透かされてるようで、グラリと揺れた。家庭がこんななのは旦那のせいだし、私の心を苦しめるのは子どもたちだし、そもそも学校の先生は役立たずだ。それもこれも、社会が悪いのだ。

 「ケーキを食べられちゃったのは私が悪いの。ママのせいじゃない。ケーキのロゴで気づいてくれるだろうと勝手に思ったのはアタシの方だから」

そういうと、廊下から雑巾を持ってきて、天使は床を拭き始めた。大粒の涙がポタポタと手の甲に落ちる。

 私はひどく後悔していた。「あんたなんかに、私は幸せにしてもらいたくない!」とひどい言葉を言ってしまった。私のことを考えて、ケーキを買ってきてくれたのに。

 私のためにケーキを買ってきてくれる。そんな人、これまでにいただろうか。父親が幼くして家を出た我が家は、母と妹の三人暮らしだった。お世辞にも裕福とは言えなかった我が家は、誕生日もいつもと変わらぬ一日であったように記憶している。そうそう、子どもが生まれる前は、旦那が出張に出かけると、欠かさずケーキを買ってきてくれたんだったな。

 そんなことを思い出せば思い出すほど、私は天使に申し訳ない気持ちになった。それで気がつくと、一緒になって床を拭いていた。

 私も天使も涙を流し、互いに「ごめんなさい」」「ごめんなさい」と繰り返していた。陽の上りきらぬ空の薄明かりがリビングにそっと差し込む。朝から何をしているのだろう。

 しばらくして片付けがひと段落すると、天使のお腹が「ギュルルルル~~」と音を立てた。あまりの音の大きさに私は尻餅をついてしまった。

 「あら、ママ、お腹空いちゃった。朝ごはんはまだ?」

あっけらかんと天使が言った。それを聞いて私は笑顔を取り戻した。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る