第5話 ジャンとアデル

 アデルが朝食の片づけを終えてみると、リディアはいなくなっていた。

 洗濯ものを干したあと、部屋に引きこもるか家を出るかしたらしい。手を拭きながらコルシュカに訊いてみると、やはりつい先程玄関から出ていったばかりだという。


「ココのとこに行くっつってたぞ」

「やっぱり……。あんまり一人で出歩いてほしくなかったんだけどな」


 昨日一日は互いに私室に籠もって過ごしたのだが、今日は気まずさに耐えきれず外出することにしたようだ。

 あの黒い使い魔は今日も森のなかをうろついている。〈穴〉のこともあったし、家の周辺ならまだしも、町まで一人で下りるのは危ないのではないか。とりあえずあとを追うだけ追っておこうかと、アデルは簡単に支度を整えた。


「コルシュカ、ぼくもオクに出てくる」

「はやく仲直りしろよ」


 コルシュカは一昨日の晩からこればかりだ。


「……なんでお嬢がいなくても平気だなんて言ったんだ。心配で居ても立ってもいられないくせにさ」

「心配だからだよ」


 ちいさくつぶやいたつもりが、耳聡い火蜥蜴には聞こえてしまったらしい。


「いっそ手の届かないところにいてくれたほうが、気が楽なんじゃないかって……」

ぼん……?」

「行ってきます。先生のことよろしく」


 コルシュカの追及を避けるように居間のドアを閉めた。

 外に出て、天海を見上げる。

 今日も白い波濤の成す雲海が天高くに押し寄せて、ちいさな木の精霊たちが辺りを飛び回ってはくすくすと笑っていた。足元には人の目に視えない蟲が蠢き、最近よく見かける黒い影のかみそりのような笑みが視界の端を過ぎる。耐えがたく目を逸らせば、天海を泳ぐ半とうめいの蛇、浮遊する白や黒の曖昧なモノ。


 全てリディアたちには視えないものだ。

 もとの世界に戻るには、アデルの視界は騒がしすぎる。


 道のど真ん中で丸まって眠っている輪郭の曖昧なものの横を通り過ぎて、オクへ向かう道を辿りはじめた。アデルの足ではリディアには追いつけないだろうが、せめてなにかあればオルガか誰かに助けを求められるように。

 ここのところ森が落ち着かない。

 不気味な笑みの面をかけたあの黒い影。何者かの使い魔であるらしい、あいつのせいであることは明らかだった。

 とはいえ、祓っても祓っても湧いてくる類いのものなので無暗に触れるな、と師から言われている。


「それにしても……」


 振り返ると、通り過ぎた黒い影の後ろ姿が視えた。

 気味の悪い蟹歩きで道を横切り、茂みのなかに潜りこんでいく。

 どこか濁ったような、ざらつきのある魔力。魔力というものは、善いものであればあるほど澄んだ色をしているし、邪悪に染まれば染まるほど濁るという。あの影ほども濁っていれば、恐らくは術者自身、悪の眷属だろう。


 このご時世の悪の眷属といえば、〈魔王〉。

 ただし魔王自身は封印され、その配下はほとんどが英雄の一行に斃されたか散り散りになって、もはや戦力と数えるほども残っていない。

 そんななか復活したとされる魔王第一麾下、《黒き魔法使い》──


「……まあ、時系列が合わないとは、言ったけど」


 小さく溜め息をついたアデルはゆっくりと歩みを再開した。




 結局リディアに追いつくことなくアデルは森を抜けた。


(多分、ココおばぁちゃんの家に行っただろうし……)


 森を一人で歩かせるのが嫌であとを追ってきたものの、アデル自身にはオクに下りてくる用事がない。さてどうしたものかと悩みながら町中を歩いていると、向かい側から見覚えのある金色のとげとげ頭が近づいてきた。


「…………」

「…………」


 ジャンである。

 あからさまに「ゲ」という顔をしたジャンがくるりと方向転換したので、アデルは大股で近づきその襟首を引っ掴んだ。


「……ンッだよ陰険眼鏡野郎! 掴むんじゃねえっ!」

「丁度よかったジャン」

「アアァ?」


 まるで牙を剥き出しにして威嚇するオオカミだ。見慣れたもののアデルは「ざっけんな」「放せクソが」「消し炭にされてぇのかテメエ」と喚くジャンの襟を掴んだまま、涼しい顔で彼を引き摺り回す。

 偶然それを目撃したオクのみんなは呆気にとられていた。


「アデルがジャンの襟首掴んでる……」

「もはやジャンからなにを言われても相手にしないアデルが……」

「明日は大嵐か……」


 ひそひそ話を背に目的の店の扉を開けると、カラン、と軽い音が鳴った。

 こちらを向いたマーサが笑顔で「あら珍しい二人組だこと!」と首を傾げる。

 確かにこのうえなく珍しい組み合わせであることに違いないので、アデルはそっとうなずいて、隅のほうの二人席へ向かった。


「はい、いらっしゃい。なにか食べる?」

「ぼく、ホットミルク」

「相変わらず餓鬼くせぇな。……おれイヨジュース」

「イヨジュースの人に餓鬼くせぇとか言われたくない」

「アア?」


 くわっと両目を見開いて凄んでくるが、慣れたものなので怖くもない。

 基本的にアデルは同年代からつっかかられるのは慣れていたし、相手にしないのが一番だとも思っている。いつもアデルが口を開くより早くリディアが憤慨するので、自分で言い返す機会がないだけだ。

 相手が大人となるとまた、話は違うのだけれど。


 飲み物を運んでくれたマーサにお金を払い、ひとまず二人は無言でカップに口をつけた。


「…………」

「…………」


 そういえば、ジャンと二人きりで差し向かうなんて、初めてかもしれない。

 アデルがオクに下りるときは必ずリディアが一緒にいた。

「わたしと二人のときはあんなに口が悪くないのに」と彼女がぼやくのをたまに聞いていたが、どうやらアデルと二人のときもそこまで暴言を吐かないようだ。


(やっぱりぼくとリディアが一緒にいると気に喰わないんだろうな)


 本題とは全く関係ないことを納得していると、沈黙に耐えかねたジャンがカップを卓子に叩きつける。


「で!」


 すたーん! と小気味いい音が天井に反響した。


「ンっでテメェはおれのところに来るんだよ陰険眼鏡野郎が」

「ジャンなら遠慮せずに罵倒してくれそうだったから」

「お望みとあらば死ぬまで罵倒してやるわ人間モドキ。リディアがいねぇとこだとベラベラ喋んのかよ」

「ああ、そうそう、いい感じ」

「キショッ」


 嫌悪を隠そうともしないジャンの正直な悪口に、つい力の抜けた笑みを浮かべてしまった。

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