第三章 世界の〈穴〉とホットミルク

第1話 どこかへ行きたいな

「どこかへ行きたいな……」


 少年はちいさくつぶやいて、まぁるい膝小僧の間に顔を隠した。


「誰もぼくを知らないところへ行きたい……」


 少女はちいさく身を竦めて、畳の上に投げだされている少年の手を握りしめる。

 線香の香りの漂う狭い寝室には二組の布団が並んでいた。顔に白い布をかけられた二人は、つい一昨日まで優しく笑ってこどもたちを抱きしめてくれていたけれど、もう二度と起き上がらない。こどもたちの幼い心にも、その厳然とした事実は理解できた。

 寝室に隣り合う居間からは、少年の親族だという大人たちの声が洩れ聞こえている。


「……横須賀のおじいちゃんは一人暮らしだしねぇ。八重子ちゃんのご両親はなんて」

「いっくんのことはもちろん引き取りたいって。ただあそこもね、おばあちゃんの調子がよくなくって……。しんどいかもしらんね」

「となると、やっぱうちか。部屋が用意できるまでちょっとかかるが」

「ねえでも、あの子……ちょっと変わったことを言う子だったわよね。美琴もちょっと怖がっているところがあったし」


 少年の肩がびくりと強張った。

 肌伝いにその気配を感じ取りながら、握った手に力をこめる。学校でも「嘘つき」とか「モーソーヘキ」とか言って意地悪してくる男子たちがいる。きっとあの大人たちもそうに違いなかった。

 いつの間にか、隣から、すすり泣く声が零れはじめていた。


「でも子どもの言うことだろ。そんな本気にすることないんじゃないか」

「美琴は嫌がってるのよ。突き飛ばされて転んだこともあるって言うし。そりゃ、口数は少なくてずっと本ばっかり読んでるけど、悪い子じゃないのは解ってるわよ、でもなにもうちじゃなくても」

「だったらどうするんだよ……」


 居間の空気がぴりぴりと肌に刺さるものになっていく。そのたびに体を小さく丸めてどこかへ消えていこうとする彼の手を、彼女は強く引っ張った。


 窓の外は、雪。


 明け方から降り始めた白いものが、徐々に薄く幕を張りはじめている。世界を白く染め上げようとするように、絶え間なく、しんしんと、降り続いていた。

 こどもたちにとっては、いまこの場所で白く眠る二人だけが、頼れるもののすべてだった。

 もうこどもたちを守る人はどこにもいない。

 この少年を守る者はもう自分しかいないのだ。


「……行こう」


 立ち上がって手を引っ張ると、彼は涙に濡れた目で少女を見上げた。大きな黒縁の眼鏡で視界に蓋をした、ちいさくて、賢くて、優しくて、傷つきやすい、けれど強い、少女にとっての世界の半分。

 だから、守らないと。


「逃げよう。ここから」


 掃き出し窓から外に出たこどもたちは、庭で遊ぶ用にいつも置いてあった靴を履いて、手をつないで、世界から逃げだした。


 マフラーも手袋も上着もない、薄着の二人は周囲から不思議なものを見るような目を向けられたが、そんなものには委細構わず駆けていく。

 行くあてなどどこにもなかった。けれど二人は心の底から、この世界を逃げだしてしまいたかった。


 嗚咽を上げながら後ろをついてくる少年の手を引く。

 ほんとうに、もう、誰もいなくなってしまった。

 最初は父だった。少女の髪と目のいろに母の不義を疑い、兄をつれて家を出た。次は母だった。こんな目に遭っているのもおまえを産んだせいだと、少女の頸を絞めた。家に帰ってくることも少なくなった。そんな状態の少女の面倒をよく見て、実の子と同じくらい可愛がってくれた二人も、もう戻ってこない。


 あえて行ったことのない道を選び、途方もなく歩き続けることしばらくして、二人は山の中に迷い込んだ。

 冬枯れの木立の隙間を抜けて雪はなおも降り続く。

 そこはこどもたちの住んでいた場所から市を跨いでもいないようなところだったが、小さな体には、まるで遠い異国の地にでも旅してきたように思えていた。


「……さむいね」


「うん、さむいね」白い息を吐きだした少年は、眉を下げて、ためらいがちに続ける。「……帰ろうよ」

 少女が足を止めると、彼は視線を落とした。


「帰ろう。風邪、ひくよ。……どこかへ行きたいなんて、言って、ごめん」

「でも、戻ったら……」

「うん。おじさんたちは困っていたけど、しょうがないよね」

「……わたしと別々になっても、平気?」


 それは卑怯な質問だった。自分でもわかっていて、それでも訊かずにはいられなかった。

 眼鏡の奥のまぁるい瞳をぎゅっと歪めて、必死に涙をこらえながら、少年がうなずく。


「平気」


 平気じゃないのは彼女のほうだった。

 本当は、彼女のほうこそが、この世界から逃げたかったのだ。


「だから……戻ろう。この山はいけない。よくない感じがする」


 同級生に「嘘つき」といじめられても、先生や大人たちに叱られても、少年はこうして躊躇いがちに忠言することをやめようとしない。それこそが彼の持つ不思議な力の証明に他ならないと少女は感じていた。だから彼のこういう直感を疑ったことはない。

 不穏な予感にふるりと震えたそのとき、何者かが枝を踏む音が、雪の静寂を切り裂いた。


「なにかいる……」


 囁いて、少年の手をぎゅっと握り直す。葉の落ちた木々の間に犬のような影が見えた。来た道を戻るべきだとわかってはいたけれど、その影は二人を森の奥へ追い立てるように距離を詰めてくる。


 ――高く、遠吠えが響き渡った。

 こどもたちの体中に鳥肌が駆け巡る。勢いよく地を蹴った犬が飛びかかってきた。弾かれたように走りだした二人は、けっして手を離さないように強く握り合ったまま、舗装された道路を外れて獣道へ飛び込む。聳え立つ木々が障害となって追いにくいはずだと、そう考えた。

 森の奥へ進むにつれ、雪が深くなってゆく。

 足跡が残る代わりに足音は消えるようになった。白く凍る息を吐きながら徐々に足をゆるめていくが、あの犬のような生き物が追いかけてくる様子はない。

 はぁ、はぁ、と二人ぶんの喘鳴だけが、静かな森の中に溶けていく。


「ここ……どこ?」


 ひとまず追う者もなくなったところで二人は立ち止まった。四方八方見渡しても冬枯れの木立が並ぶばかり。頭上を仰いでも分厚い雪雲が広がっているだけで、目印になるようなものもない。追われるがまま、方角など気にもせず走ってきたので、もはや自分たちがどこから来たのかもわからなくなっていた。

 雪はその密度を濃くしている。足跡を追っても、すぐに掻き消えてしまうだろう。


 迷ってしまった。

 視界は降りしきる雪で白く染まりつつあった。帰るべきだとわかっているのに、帰る道がない。少年はなにも言わなかったけれど、彼を巻き込んだのは自分であると、少女はそう理解していた。

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