第9話 約束を破らず、嘘をつかない

 やがてイルザークの結界を超える。

 これは基本的に家人に来客を告げるためのものであって、黒い影のようなものを弾く役目がない。いまのところ実害はないが、なにも視えていないリディアの周りをあの影がうろつく可能性を考えると、それだけで体の奥底に物騒な殺意が沸き上がる。


(……やっぱり先生に結界を強くしてってお願いしようかな)


 気にするなとは言われても、視えてしまうのだから仕方がない。

 なにか起きてからでは遅いのだ。リディアにはなにも視えないし、退けるだけの力がないのだから。

「ついたぞ」オルガの声に体を起こすと、見慣れた木と煉瓦の一軒家はすぐそこだった。

 足を止めた彼の背からずるずると降りる。


「あ、オルガ、すぐ戻るから少し待っていてね」

「うむ?」


 犬がおすわりをする姿と全く同じ姿勢で座り込んだオルガに、アデルは口元をやわらげながらドアを開けた。

 でかい図体して、仕草の可愛い友だちだ。


「ただいま帰りました」


 いくらイルザークの寝起きが最悪といっても、日も傾きはじめた夕刻頃ともなればいい加減に起き出しているはずである。そう思って声をかけながら居間を覗きこんでみたのだが、しんと静まり返っていた。

 そのかわりに、廊下をはさんで反対側の部屋から話し声が聞こえてくる。

 来客だろうか。それ自体は珍しいことではないので、アデルは薬箱を下ろして、暖炉のなかにコルシュカを捜した。


「コルシュカ、ただいま。お客さん?」

「おう、お帰り、坊。魔法教会のやつらがちょっとな」

「魔法教会? なんでまた……」


 王都に本部を構える魔法教会は、全ての魔法使いが所属を義務付けられる公的機関だ。魔法使いは、その技術を独占せず、大衆のために広く研究結果を公表することを求められる。そのため〈魔法使い〉を名乗るためには魔法教会に籍を登録しなければならない。

 特に教会本部に勤める魔法使いは総称して〈魔法士〉といい、世界じゅうの魔法使いの管理や、適切な魔法の行使を監視するほか、現在では魔王封印の地である暁降あかときくたちの丘の番人も担当していた。

 確かにイルザークも魔法教会に登録した魔法使いではあるだろうが、アデルの知る限り、教会の人間が直接訪ねてきたことはない。


「先生のことだからお茶なんて出してないんだろうな……」

「気にしなくていいと言っていたぞ。やつらが帰るまで部屋に入ってくるなってよ」


「ふぅん……」わざわざ弟子たちを遠ざけるようコルシュカに言いつけるあたり怪しさ満点である。

 台所に取っておいた自分用のパイの皿を持って外に出ると、先程から微動だにしていないオルガの金色の双眸がきらっと輝いた。


「苹果のパイか……!」

「うん。あとで食べようと思って取っといたけど、オルガにあげる。乗せて帰ってくれたお礼」

「おれは昼のサンドイッチの礼だったのだぞ。礼に礼を返されては意味がない」


 そうだったのか、と目を丸くしたアデルは、だが苹果のパイから視線を逸らさないオルガに苦笑して皿を差し出した。

 義理堅い魔物である。


「じゃあ一つお願い」

「……聞こう」

「リディアが危ない目に遭ったときは……そしてぼくが間に合えないときには、オルガ、きみが助けてあげて。なにせ無鉄砲だからなぁ」

「誓おう。リディアが危ない目に遭ったときは助ける」


 魔物は約束を破らない。

 魔物、精霊といった隣人にとっては、触媒を介した約束は『契約』にあたり、『契約』は当然守られて然るべきと考える。そういう生き物なのだ。

 約束を破らず、嘘をつかない。

 人間よりも余程信頼できる。アデルはそう思っている。

 ちいさな皿の上、その巨躯に対してあまりにも小さな一切れのための約束でも、オルガはきっと守ってくれる。

 パイに顔を近づけたオルガの鼻面にアデルは顔を埋めた。


「お願いね」

「ああ」

「こんな脚じゃ、リディアのために走ることもできないしね」

「そのときはおれがアデルの足になってやる」

「……じゃ、そしたらオルガの好きなものを作ってあげる」

「うむ」


 低く、ただ一言請け負ってくれたオルガの、真摯な声に涙が滲んだ。

 アデルのためのパイ一切れはオルガにとっては一飲みだった。皿ごと食べてしまわないかという心配をよそに、ざらりとした赤い舌で器用にパイを掬い上げる。

 これじゃ食べた気にもならないだろうな。アデルが肩を竦めて、皿に手を伸ばした、そのときだった。


 世界が欠けた。


 花開いた薔薇から花弁が一枚はらりと落ちたような、遅れて零れた砂時計の最後の一粒のような、ささやかに、でも確かな感覚で、音もなく、世界が欠けたのだ。

 アデルは最初それがなにを示すのかわからなかった。

 目を丸くして凍りついた彼の横でオルガが耳をぴくりと動かさなければ、もしかしたらわからないままだったかもしれない。


「……〈穴〉が、空いたか」

「〈穴〉……」


 それは確かに聞き覚えのある言葉だった。

 穴。――世界の穴。

 あの雪の日、凍えて雪に沈んで世界に均されようとしていたあの瞬間、イルザークのつぶやいた声が映像になって過ぎる。


「リディア……?」


 この、喪失感。

 世界が欠けたとさえ錯覚させる、アデルにとっての世界の一部。そんなもの、彼女以外ではありえない。

 ──リディアがいない。

 なんの根拠もなくそう確信した。それを裏づけるように血の気が引いていく。震える掌から滑り落ちた皿が地面に当たってパリンと割れた。


 リディアがいない、この世界のどこにも。

 あまりの恐怖に肺腑の底まで冷えきるようだった。


「アデル?」きょとん、とオルガの双眸に見つめられてようやく、氷が砕けたようにアデルは駆け出す。入ってくるなと言われたはずの客間に飛び込むと、イルザークと、二人の魔法士がこちらを振り返った。

 イルザークが腰を浮かせる。進んで言いつけを破るような弟子ではないことを、彼は解っているのだ。

 驚いたようにアデルを見ている魔法士たちに目もくれず、イルザークは躓いたアデルを寸前で受け止めた。


「なにがあった、アデル」


「先生――」喘ぐように肩で大きく息をして、アデルはその人生で最も恐ろしいとすら思える現実を口にした。


「リディアがいない」

「リディアが?」


 訝しむことなく問い返す師の黒装束に縋りつく。

 そうでもしないと膝から崩れ落ちてしまいそうだった。



「いないんだ、どこにも。──世界のどこにも……!」

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