犬と猿(一)

 ふざけたあまがいるんで、どうにかしてくださいよ──と、袖の重みとともに頼まれたのは、十日ほど前のことだ。


(さて、どうするか)


 波切りの伊佐次は、剃刀を当てたばかり顎を撫でながら思案した。


 頼んできたのは、おのが島にある賭場の胴元だ。早々悪どい商売はしない男だが、如何様いかさまがないわけでもない。伊佐次にとっては、借りもなければ、貸しもない男だ。


(てえことは)


 関わる理由がない。

 だが、伊佐次はなぜかその話が気になって仕様がなかった。何だろうと思う眼裏を、ついと紅色の鹿子絞が過ぎる。あれはなんだと思い返すうちに、耳元で声がした。


「おじさん、こんな具合でどう」


 女髪結のおこうは、死んだ親父の代からの贔屓だ。女の身で店を構えて三年になる。つまり、親父の鉄三が死んで三年だ。


 伊佐次は、お上の鑑札を預かる御用聞きだ。毎朝同じ時刻に寄って身なりを整え、まずは旦那のご機嫌伺いに八丁堀へ足を向ける。


 鏡を覗き込みながら、鬢を指で撫でつけた。


「ありがとよ、おこうちゃん。さすがだ。ますます腕が上がったな」


 おこうは道具を片付けながら鼻で笑った。年増女のような仕草に、ついとがめたくなる。


(親じゃあるめえし)


 おこうは確か、今年で十八だ。赤子の頃から知っていれば、そんなものなのだろうと思う。女房も子もいない伊佐次にとって、成り行きで面倒をみることになったおこうは、実の娘のようなものなのだ。


 おこうは、持ち前の勝気な目で、値踏みするように伊佐次を見返した。こういう顔をするときは、なにか魂胆がある時だ。


「どうした。面白えことでもあったか」

「何が聞きたい、おじさん」


 と、舌舐めずりをする顔が親父そっくりだ。


 髪結床が知らぬ噂話はない。親父の鉄三は、伊佐次の「地獄耳」だった。それが祟っての最後だった。おのが「犬」ゆえではなく、「詮索ずき」ゆえに身を滅ぼした。木乃伊みいらとりが 木乃伊になったというあれだ。


「やめてよ、おじさん。小言は聞かない」

「俺がなんで、おまえさんに小言なんざ云わなきゃいけねえ」

「嫌だからでしょ。あたしがおとっつぁんと同じ轍を踏むんじゃないかって。おじさんの所為であたしまでおっんだら、寝覚悪いもん」

「図星だ」

「おじさん、正直だから好き」


 おこうは、からからと笑った。


「で、何をきいた」

「こないだ、ここで、四ツ木の胴元さんから賭場荒らしのこと頼まれてたよね。すごい美人ののこと」


 そっくりの口調に思わず笑う。


「受けるか決めてねえぞ」

「ちんけな話だし、あたしもそう思ったんだけどね」

「そいつのことか」

「聞きたい?」


 伊佐次は観念した。木乃伊みいらとりはおのれかもしれない。


「早く云え」

「最近、神保小路の有馬屋敷に、たいそうな美人が出入りしてるんだって」


 貧乏旗本の屋敷が、賭場に貸し出されるのはよくあることだ。武家地は町方の手が及ばない。格好の隠れ蓑なのだ。


「それで、どうした」


 どこの賭場にも美形のひとりやふたり。

 おこうの鼻息が、かすかにあらくなる。


「おじさん、そいつね──お役者小僧だよ」


 伊佐次の目が、物騒なひかりを宿す。


「なんで、そう思った」

「女の勘」


 おこうにもおこうの伝手つてがある。ひと睨みして、頷く。


「わかった。だが、おまえはもう関わるな」


 伊佐次は法外な髪結賃を置いて、外で待たせていた手下に一言、二言ささやく。


「いいな、おこう。きっぱり手を引くんだぞ」

「いってらっしゃい」


 伊佐次は、養い子のはしゃいだ声に送り出された。





〈続く〉



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