エピローグ
エピローグ
拝啓
早春の候、益々御清栄のこととお慶び申し上げます。元横綱にしてプロレスラー狛ヶ峰
、二度目の引退に寄せ、書中にて失礼致します。
あなたがプロレスラーに転身してから二十年、大相撲時代と合わせて四十年近い格闘人生に終止符を打たれると聞き、一ファンとしての身も顧みず筆を取りました無礼とあわせて、或いはその祝福の日に相応しくない書き出しになるだろう無礼を重ねてご容赦下さい。
そう、狛ヶ峰八百長問題のことです。
二十年前、あなたはとんでもない不祥事をしでかしてくれました。
問題が発覚した当時、私の息子浩太郎は難病に蝕まれ、闘病生活の真っ只中に身を置いておりました。
その浩太郎が八百長問題で受けたショックたるや……。
浩太郎は生きる気力を失ってリハビリを投げ出しました。浩太郎の症状は、この時期一気に進行しました。それは紛れもない事実です。
浩太郎は不正行為に打ちひしがれ、大相撲から、そしてあなたから目を逸らそうと懸命でした。最初からそんなものに興味はなかったのだと取り繕うのに必死でした。
浩太郎は、浩太郎自信に何の責任もない八百長問題から自分の心を守ることで精一杯になってしまったのです。
しかし私達には分かりました。
浩太郎は、病室にまでお見舞いに来てくれたヒーロー狛ヶ峰を、この期に及んでも嫌いになりきれてはいませんでした。そのために浩太郎はよりいっそう苦しんだのです。
これは一体誰のせいなのか。
何故息子は苦しまねばならないのか。
息子自身のおこないに何の落ち度もないのに、何故八百長問題のしわ寄せが息子のところに来なければならないのか。
この不条理を前にして、私達夫婦はあなたを怨みました。殺意を抱いた、といっても過言ではないほどでした。
この小さな一家族を襲った出来事ひとつ取ってみても、あなたの犯した罪の深さが分かっていただけたかと思います。
或いはあなたにとっても消し去りたい過去、触れて欲しくない記憶なのかもしれません。
これから先、あなたの事績を振り返ろうという何者かが現れたとき、その人物が、あなたの犯した八百長問題に言及しないという態度を取ることが果たして許されるでしょうか。
あなたの残した輝かしい実績は不正行為と表裏一体のものとして今後も語り継がれることでしょう。そしてこれこそが「歴史の審判」という言葉の本質に違いないのです。
しかし、このことも覚えておいて欲しいのです。
我が子浩太郎は狛ヶ峰の二度目の引退を目にすることなく神の御許に召されました。彼の魂が最期の最期まで類い稀な勇気に彩られていたことを私達は知っています。
プロレスラー狛ヶ峰が大般若選手と繰り広げた激戦は贖罪そのものでした。そしてその闘いは間違いなく浩太郎の心を動かすものでした。
浩太郎が、曾て自分を裏切り苦しめた狛ヶ峰のために声援を送ったことがその証拠です。
狛ヶ峰に声援を送った瞬間、浩太郎は「自分を苦しめた者を赦す」という困難を成し遂げたのです。これは誰にでも出来ることではありません。
「赦し」とは強い者の性質だといいます。勇気がなければ裏切り者を赦すことなど出来ません。浩太郎は狛ヶ峰を赦した瞬間に、自発呼吸にすら支障を来し始めていたにも関わらず、この世の誰よりも強い男になることが出来たのです。
浩太郎の一生は確かに他人よりも短いものでした。それは否定できない事実です。しかしその短い一生の間で彼は、喜怒哀楽全ての感情に加えて、人を赦した者のみが得ることの出来る、特有の感情を抱いたに違いありません。
不寛容がはびこり、そのために心が痛むような事件が相次ぐこの生きづらい世にあって、彼はその得がたい感情を自らの勇気によって勝ち取ったのです。全て、あなたとの関わりの中で得たものです。そのことも間違いないことなのです。
今後現役を退いても、狛ヶ峰には枕詞のように「八百長横綱」の評が付いて回るでしょう。それは仕方のないことです。
しかしあなたを赦したファンもいます。私達夫婦の愛する息子、浩太郎がそうです。
あなたは確かに赦されない不行跡を犯したが赦された。赦したのは私達の息子である。
浩太郎のためにも、八百長問題を含めて御自身の実績を誇りに思って欲しいと今は切に願うものであります。
略儀ながら書中をもってご挨拶申し上げます。永年の激闘お疲れ様でした。何卒ご自愛専一におすごし下さい。
敬具
大般若孝vs八百長横綱――赦しの物語―― @pip-erekiban
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