第十七話「浩介対狛ヶ峰」

 相撲界とプロレス界のつながりは意外というべきか、やはりというべきか、強固である。日本プロレス界の始祖が元関脇力道山であってみれば当然のことといえるかもしれない。

 ただそれはプロレス界からの相撲界への片思いともいうべきつながりであって、その逆は成立しない話であった。

 というのは、まったく鼻持ちならない態度なのであるが、協会関係者、就中なかんづく幹部と呼ばれる連中には、大相撲というものは国技であり神事なのであって、他の競技と比較しても高尚なものだという考えが脳髄に固くこびりついていたからであった。

 とりわけプロレス界に対しては、その始祖が大相撲では関脇止まりだった力道山ということや、競技性が疑わしい試合形式も相俟ってこれを軽視するの風潮従来より甚だしく、プロレス蔑視の傾向は強固だった。

 今は逐われたとはいえ理事長職まで勤めた北乃花もその弊を免れぬ。

 北乃花は既に一人の老人に過ぎぬ己が身分も忘れ、これも今は現役を退き一私人に過ぎぬ狛ヶ峰がプロレスラー、しかもその中でも特に異色のキワモノ、大般若孝からの挑戦を受けようというさまを見るにつけ、

「なに勝手なことやってるんだ」

 と咎めずにはいられなかったのである。

 たが北乃花が困惑したのは、狛ヶ峰を咎めた自らの所業でさえも、大般若興行が事前に取り決めたアングルの一種であると観客に思われている点であった。

「アングル」という語や、その持つ意味を知らぬ北乃花であっても肌身でそのことを感じている。

 その証拠に、会場の至るところから

「理事長! やっちゃって下さい!」

 などとする声援が飛んできたからだ。

 業を煮やした北乃花がいくら

「俺は本気なんだ!」

 と叫んでも、観客はそれに呼応して大喜びするだけである。それがまた北乃花の怒りを増幅する。


 俺が止めねば誰が止める。大相撲の歴史と伝統は俺が守る……!


「とでも思ってるんですか北乃花さん」

 狛ヶ峰に詰め寄り、そのプロレス参戦を妨げようという北乃花の肩を背後から掴んでむしろ咎めたのは、浩介であった。

 北乃花の肩を掴むその手に力がこもる。

 浩介が満身の力をその手に集中させたとしても、一時代を築いた元横綱を相手にしては蟷螂の斧に等しいと人は思うだろう。だが気魄というものは、数値化可能な握力とか筋肉量とか、そういった次元を時として超越し、言葉で伝えられる以上の本気度を、相手に伝えることが出来るものである。

 そして現役時代、幾多の好敵手と肌を合わせて闘ってきた北乃花だからこそ、浩介が自らの肩を掴むその手に籠めた気魄をこの男は過たず感じ取ったのであった。

(この男、本気だ)

 そう直感した北乃花が振り返れば、浩介の目は狛ヶ峰一人に注がれている。浩介と狛ヶ峰の間に立ち塞がる形だった北乃花が、弾かれるようにその場から後ずさりした。

 浩介と狛ヶ峰。

 両者の間を妨げるものは何もない。

「久しぶりですね横綱」

 呼びかけられた狛ヶ峰は怪訝そうな顔だ。思い当たるふうがない。

「無理もありません。難病の子を見舞うために訪れた病室のなかの一人など、覚えているはずがありませんからね」

 その言葉を聞いた狛ヶ峰に、開けたような表情が浮かぶ。最後の優勝を果たした名古屋場所前、確かに狛ヶ峰は筋ジストロフィー症という難病に犯された男の子の病室を訪れている。

 自分の熱烈なファンだという子だ。

 声を掛けた途端、顔を覆ってただ泣くばかりだったあの男の子。

「その子の父親ですよ」

「あの時の……」

 自分達を取り囲み声援を飛ばす観客達の声が途端に遠くなる。耳許で大声で叫ばれているかの如く、浩介の声が狛ヶ峰に迫ってきた。

「とんでもないことをしでかしてくれたな」

 一般人に過ぎず大したスポーツ経験もない浩介の気魄に、狛ヶ峰が明らかに圧されている。蛇に睨まれた蛙状態である。

「相撲もやめたし嫁さんからは三行半を突き付けられた。自分も……」

「だからどうしたというのだ」

「……!」

「自分も罰を受けたのだからそれで許してくれとでもいうつもりか。息子の、浩太郎の生きる希望をどうしてくれる。

 お前が罰を受けたところで同じことだ。

 さあこたえろ。息子から生きる気力を奪ったことをどうしてくれるのかと聞いているんだ」


「社長、なんか妙だ!」

 田中ハードコアが大般若孝の元に駆け寄って言った。狛ヶ峰と北乃花、そして浩介とのやりとりを呆気にとられて見詰めるだけだった大般若孝が、はたと気付いたように鬼の形相作り、パイプ椅子を振り上げ、狛ヶ峰の不意を突く形でこれを振り下ろした。


 ガツンという衝撃音が大きく響く。それに合わせるかのような観客の歓声。

「何があったのかは知らねえ。だがおよそ察しはつくぜ」

 椅子を狛ヶ峰の背中に叩き付けながら、

「なあ横綱」

 と大般若孝が語りかける。

「なあ横綱。

 もう一度、闘いの場に戻ってこなきゃいけないんじゃないのか? 詳しい事情は知りゃしないが、あんたにはその理由があるんじゃないのか?」


 ガツン! ガツン!

 大般若孝が一声発するたびに振り下ろされるパイプ椅子。

 その衝撃は、一人のファンから生きる気力を奪うという罪を犯した狛ヶ峰にとって、地獄の鬼の打擲ちょうちゃくにも似た痛みを感じさせた。

 なので狛ヶ峰は、パイプ椅子で殴られるという初めての痛みから、一度として逃げることがなかったのであった。

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