第十六話「対戦承諾」
いつからだろうか。「温かい声援」とやらを受けなくなったのは。
いつ以来だろうか。その「温かい声援」を身に受けたのは。
今日の酒代にも窮する狛ヶ峰は、自分の名前を自分に無許可で使って金儲けをしている大般若孝とやらから、自分が受け取って当然のマージンを受け取るべく会場に足を運んだものであった。
だがそこで彼を待ち受けていたのは、予期しなかった温かい声援。そう、ここ数年は耳にしたことのない、自分を歓迎するたくさんの声援であった。
さすがに長く横綱に在位していただけあって、今さら多くの人々の視線を浴びたからとて動揺する狛ヶ峰でもなく、何者にも動じぬ威風堂々たる王者の風情を醸しながらまるで自分の指定席はずっと前からここに決まっていたのだといわんばかりに、パイプ椅子に腰を下ろしたのであった。そして狛ヶ峰は、これも長く横綱として君臨していた者の為せる業か、自分のそういった傲岸不遜ともいえる態度こそ、この会場を埋め尽くしている観客達が望んでいるものだと過たず看破したのである。
やがて聞こえてきたもう一つの歓声の波。
「大般若ー!」
観客達が口々にその名を呼ぶ。
現れたのだ。自分をこの場に呼び寄せた張本人が。
そう考えると狛ヶ峰は、パイプ椅子から腰を上げずにはいられなかった。
初めて実物の大般若孝を見た狛ヶ峰が受けた第一印象は
「随分小柄な男だな」
というものであった。
これまでも、何度か百七十センチ前後の力士と相撲を取ったことのある狛ヶ峰である。しかしそのうちの誰と比べても、大般若孝は小さく見えた。
単に上背だけの話ではない。上背だけなら大般若孝よりも低い力士など腐るほどいる。
足りないのは体重だ。
百キロちょうどという大般若孝のプロフィールは明らかに嘘であった。どう重く見積もっても八十キロに届くか届かないか、という程度であろう。
こんな小柄な男がこの俺とどうやって闘おうというのか。
それは狛ヶ峰にとって有り得ない話であった。いくら大般若孝が得意とするノーロープ有刺鉄線電流爆破デスマッチとやらに持ち込んだとしても相手の手に乗らず、のっけから張り手を一発かましてやればそれでケリがつく話であった。
そしてそのことは、今まさに自分と真っ向対面している大般若孝自身がよく理解しているはずであった。逆立ちしても勝てない相手だと。
狛ヶ峰にとって、そのような相手とそれでもなお闘おうという動機は一つしか考えられなかった。
そう、「儲け」である。
もし狛ヶ峰がいまも横綱として現役に留まっており、目の前に立つこの小柄な男からかかる無礼な挑発を受けたならば、有無を言わさずその場で張り倒していたことであろう。話はそれで終わりだったはずである。
だが、いまの狛ヶ峰は横綱でもなければ現役でもなかった。狛ヶ峰は一瞬にして気付いた。
「このチャンスを逃がしてはならない」
と。
大般若孝がどのような言葉で自分を挑発をしたのか、この際問題ではなかった。大般若孝は何ごとか大声でまくし立てると、感情が激したかのようにマイクを床にたたきつけた。
(次はあんたの番だ)
言外にそう促されていることに気付かぬ狛ヶ峰ではない。
長い長い身体を折り曲げて、大般若孝が投げ捨てたマイクを手に取る。
狛ヶ峰がなによりも参ったのは、そういった取るに足らぬ所作だけで驚くほどの歓声が上がったことだ。
何年かぶりにこの身に受けた温かい歓声が腐敗しつつあった狛ヶ峰の心をくすぐる。万を数える人々の前で土俵入りを披露し、圧倒的な力を誇示して観客達の喝采を浴びるエンターテイナーとしての心を、だ。
嬉しくて嬉しくて、この場に似つかわしくない笑顔が自分の顔面に張り付いてはいまいか。
そう心配した狛ヶ峰は、マイクを拾い上げる一瞬の間に、眉間に縦皺を寄せ、険しい表情を作った。
観客席が再び静寂に包まれる。
「大般若孝……」
低く野太い声が観客達の腹の底に響き、観客から歓声が沸いた。
「大般若孝……」
観客に静寂を促すかのように、もう一度大般若孝の名前を呼ぶ狛ヶ峰。
「俺に挑戦したことを後悔させてやるぜ」
この会場に居合わせた観客達のなんと幸せなことか。それは単に、あの「邪道」大般若孝が不可能と思われた狛ヶ峰との対戦に向けて大きく前進した一歩を目撃出来たから、というだけの話ではない。大般若孝と狛ヶ峰のこのやりとりが、事前になんの打ち合わせもなく、いわば双方の阿吽の呼吸ともいえる即興で成立した、その奇跡の場面に
狛ヶ峰のこたえを聞いた瞬間、場内は大変な歓声に包まれた。大般若コールと狛ヶ峰コールが相半ばする会場。
その歓声の中、激しく睨み合う狛ヶ峰と大般若孝。
そこへ一人の初老の男が駆けつけてきた。
「お前ら、なに勝手なことやってるんだ!」
初老の男は血相を変えて二人の間に割って入った。男は北乃花であった。
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