第十五話「狛ヶ峰現る」

 見慣れた紋付き袴姿ではない。上下黒を主体としたジャージーにサンダル履き。床山が付いていないせいか、髷は手入れが行き届かず乱れ気味である。現役時代からやややつれて見えるが、間違いなくこの男はあの横綱狛ヶ峰であった。会場内に足を踏み入れるや、四方八方からものすごい声援だ。

「狛ヶ峰ー!」

「横綱ー!」

 なかには八百長横綱に対する揶揄めいた声援があったことも否めなかったが、会場のそこかしこから飛ぶ声援は明らかに狛ヶ峰の出現を歓迎しているものであった。これらが寄り集まり、どよめきとなって会場を包む。


「ほんとに来やがった!」

 花道の奥から観客席を覗き込んだ長崎浩二が驚きの声と共に控え室へと飛ぶ。大般若孝に報せなければならない。

「横綱が来たぁ~?」

 大般若孝自身も信じられないといった風情だ。素っ頓狂な声を上げて叫ぶ。

「社長どうすんだよ」

「どうするもなにもあるか。呼んだのはこっちなんだから顔出さないわけにはいかねぇだろ」

 いつもは楽観的な大般若孝も、この時ばかりは声の震えを止めることが出来ない。

 大般若孝が言ったとおりで狛ヶ峰を会場に呼び寄せた本人が逃げ回るような態度は許されることではなかった。観客は大般若孝がこれまで狛ヶ峰に散々対戦を要求してきた経緯を知っているのだ。狛ヶ峰が会場に現れたというのに、大般若孝がこれと接触しないなどということがなぜ許されるだろう。


 いままで何度か不可能と思われる対戦を実現させてきた大般若孝であったが、これらはおしなべて、相手の所属する団体に事前に対戦を打診し、対戦ムードが煮詰まってきたタイミングを見計って試合をするという手順を踏んで実現してきたものであった。いわばプロレスという共通言語の話者わしゃ同士で事前にみっちりと話し合い打ち合わせを行って、穏便に対戦が実現してきたものだったのである。

 プロレスというものはいくら緊張感のあるアングルを組んでも、基本的にはこの枠組みから外れることがない。リング上の秩序を維持し、安全に試合を行うために当然求められる作業であった。

 だが今回大般若が対戦要求したのは元横綱。注射相撲が世間に露呈して協会を逐われた一介の素浪人が相手なのである。そのような相手がプロレスという言語を理解してくれるかどうか甚だ心許なく、現時点では全く未知数といわなければならなかった。

 協会はもはや大般若興行にとって交渉相手たり得ず、その意味では宮園部屋も同様であった。

 つまり大般若陣営としては狛ヶ峰本人と交渉し抜ければならなかったのだが、本人は自宅マンションを夜逃げ同然に引き払って以降、狛若の自宅に雲隠れして行方をくらませていた。

 その横綱が、事前の交渉が全くない状態で大般若興行の会場に姿を現したのである。

「社長、直接の接触は危険だ!」

 長崎に言われるまでもなくそのようなことは百も承知の大般若孝である。相手がどう出るか、現時点では全く読むことが出来なかった。いくら注射相撲で協会を放逐された身とはいえ、単純な腕力だけでいえば、疾うの昔に全盛期を過ぎた大般若孝が狛ヶ峰の相手になるわけがなかった。そのことは狛ヶ峰が連山を張り手一発でのした取組ひとつ取ってみても明らかであろう。相手は現役を退いて間がないのである。

 もし大般若孝による対戦要求を真に受けた狛ヶ峰が、衆人環視の中、大般若孝を張り倒してしまえばどうなるであろうか。

「大般若孝の名は地に堕ちて、大般若興行の経営はピンチに……」

 ここまでいうと、長崎浩二の口が止まった。

 目の前には大般若孝。黙って口角を上げ、にやついている。

 長崎浩二は大般若孝の不敵ともいえる微笑を見た瞬間、全てを悟った。

 これまで数度にわたり引退と復帰を繰り返してきた大般若孝。一部のファンは勿論、レスラー仲間のうちでも彼を「嘘つき」と呼ぶ者は多かった。

 暴竜ぼうりゅうりきとの一戦ではどうだったか。ほぼ一年にわたり暴竜との対戦を求めるアングルで引っ張ったが、結果はほとんど一方的な試合内容での暴竜の勝利だった。大般若孝は良いところのひとつもなく敗れ去り、救急車で病院送りにされる憂き目を見たのではなかったか。

「嘘つき」呼ばわりされ「邪道」の名をほしいままにし、暴竜力相手に一方的に痛めつけられた大般若孝の名前など、とっくの昔に地に堕ちているではないか。

 それに大般若興行のみならず、世のプロレス団体のほとんどは恒常的に経営難であった。大般若興行とて明日をも知れぬ身なのであって、今さら長崎浩二が大般若興行の経営難を心配などしたところで、経営状況が好転するはずもなかった。


 要するに、守らねばならぬものなどなにもない。


「張り倒されたって良い。失うものは何もないんじゃ……」

 大般若孝が呟いた。

「そうだったな社長。失うものなんか、はじめからなかったよな……!」

 

「大般若! 大般若!」

 観客席からは割れんばかりの大般若コールだ。

 その歓声が、波濤のようなどよめきとなって会場を包む。大般若孝が花道から現れたのだ。

 パイプ椅子にどっかりと腰を下ろしていた狛ヶ峰が、会場の雰囲気の変化を嗅ぎ取りぬっと立ち上がる。

 でかい。

 大般若孝より二十センチは上回っているだろうか。

 その狛ヶ峰を見上げる大般若孝。

 両者相対してものすごい視殺戦だ。

 ただならぬ雰囲気を感じて大般若興行の若手レスラー数名が両者の間に割って入ろうとする。

 大般若孝がリングアナにマイクを要求した。

 その声を聞き逃すまいと、まるで申し合わせたかのように会場が静まり返る。


「おい、横綱」

 静寂の後に発した大般若孝のひと言で、またも歓声に包まれる会場。狛ヶ峰は身じろぎもせず大般若の次の言葉を待っている。

「横綱。あんたには聞こえるじゃろう。この会場の声が。

 なにを求める声か、横綱には聞こえるじゃろう!」

 大般若はここまでいうと、観客達の歓声を求めるかのようにマイクを高々と頭上に上げた。

「電流爆破!」

 異口同音に観客席から声が飛ぶ。

「聞いてのとおりじゃ横綱。ファンは、俺と横綱が、電流爆破で闘うことを望んでいる! ここで、ここで、ここで、ここで、こたえを聞かせてくれ横綱!」

 感情が激したかのように、マイクを床にたたきつける大般若孝。

 次はお前の番だと促す。

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