第十四話「奇跡の始まり」
「なにこれ。誰こいつ」
狛ヶ峰は、身を寄せていた弟弟子、狛若の自宅で見せられたインターネット動画を前にこう言った。
ほとんど無一文になって地位も名誉も失った狛ヶ峰であり、八百長という許されない罪を犯して相撲界を追放された以上、狛ヶ峰と関わりを持つことは協会関係者にとって忌避されることであったが、狛ヶ峰を兄弟子と慕う数少ない弟弟子のひとり、幕内力士の狛若が、自宅に狛ヶ峰を匿っていたのである。
しかし狛若も、独身とはいえ狛ヶ峰のような大男に居着かれてしまってはかなわない。狛ヶ峰が自立するためにはまず職を見付けてもらわねばならなかったが、本人は昼から、というよりも朝起きてから酒浸りの毎日であり、今のままではとても昼働いて夜眠るような真っ当な仕事に就けるとは思われなかった。そこへ、降って湧いたようなプロレスラー大般若孝からの対戦要求である。
パソコン画面の中では、元力士のプロレスラー玄龍天一郎をサンダーボルトパワーボムとやらで切って落とした大般若孝が、マイクを手に持ちながら
「おい、おい、おい、おい」
と観客を煽る姿が映し出されている。
大般若は手にしたペットボトルの水を口に含んでは観客席に向けて噴霧する。忌避する客は皆無で、むしろみんな、好んでこれを受けているように思われた。狛ヶ峰にとっては奇怪な光景であった。
「おい、おい、おい、おい」
大般若孝はまだやめない。
「おい、俺はな、俺はな、お前らよう聞け、いいかお前らよう聞け。俺はな、今日、玄龍を倒した」
ひとつひとつ、噛みしめるように語りかける大般若孝。
「それが何を意味するか、お前ら分かっとるか、どうじゃ、分かっとるか」
大般若の問いかけに、観客が歓声でこたえる。歓声の中から
「横綱!」
という声が飛んだ。
「そうじゃ。俺は、玄龍を、倒した。
次は、横綱、横綱、横綱、横綱、横綱狛ヶ峰じゃ!
俺は、横綱狛ヶ峰と、電流爆破デスマッチをやるんじゃ!
狙うは狛ヶ峰の首ひとつ!」
映像はそこまでであった。
しばし沈黙する狛ヶ峰。
「どうです横綱。もうやるしかないんじゃないですか」
渡りに船でしょ、とでも言わんばかりの狛若。
今でも力士が引退すれば、いくつかのプロレス団体から誘いが来るものだ。望まぬ引退を強いられた狛ヶ峰のもとにも、水面下で複数のプロレス団体から誘いの手が伸びてきてはいた。しかし妙子夫人との離婚が成立してプライベートでもどん底にあった狛ヶ峰は、最強横綱のプライドが邪魔をしてどうしてもプロレスに参戦するという気になれないでいた。
そこへ持ってきての、この動画である。
「勝手に騒いでるだけじゃねえか」
酒臭い息を吐きながら狛ヶ峰が歯牙にもかけぬと言わんばかりに吐き捨てた。どうやら大般若興行にも参戦するつもりはないらしい。
そんな兄弟子に、狛若が切りだした。
「横綱、申し訳ないんですけど、そろそろうちも限界です。いくら独身だといっても、そう朝から酒浸りで部屋に居着かれたら、稽古から帰っても
言いづらいことを言わなければいけないプレッシャーからか、狛若は長い台詞を棒読みするかのような口調で狛ヶ峰に言った。
缶チューハイを片手に、狛若の方を見もしない狛ヶ峰。動画を終えて動いていないパソコン画面を見ながら細かく震えている。
しばらくして狛若の耳に届いたのは
「わかってるよ」
という絞り出すようなひと言。
「じゃあ、荷物まとめといて下さい」
狛若は冷たくもそう言い放つと、そそくさと出かけて行った。
「畜生め……」
どいつもこいつも俺を邪魔者扱いしやがって。ほんの何ヶ月か前までは最強横綱だのなんだのと持ち上げてたのはどこのどいつだってんだ。
狛ヶ峰はそう叫びたい気持ちであった。
狛ヶ峰は狛若が見せてくれたパソコンをさわり始めた。
検索画面で
「だいはんにゃたかし」
と入力して検索すると、大般若孝に関する膨大な量の情報が検出された。
曰く「涙のカリスマ」。
曰く「ノーロープ有刺鉄線電流爆破デスマッチの開祖」。
大般若孝にまつわるそのようなキーワードとともに、このプロレスラーがこれまで何度も引退と現役復帰を繰り返しており、一部のファンからは「嘘つき」呼ばわりされていることも知った。
「プロレスなんて、全部嘘じゃねえかよ」
狛ヶ峰はひとりごちた。同時に納得のいかない気持ちがふつふつとわき上がる。
何度も引退と復帰を繰り返すような大嘘つきに、どうしてこんなにも多くのファンが群がるのだろうか。自分はたったひとつ、注射相撲が明らかになったというだけで地位も名誉もファンも家庭も収入も、全てを失ったというのに。
ふと、狛ヶ峰の目が大般若興行ホームページに止まった。
「大般若興行後楽園ホール大会。現れるか狛ヶ峰」
そのようなキャッチフレーズがでかでかと張り出されている。
(人の名前使ってなに勝手なことやってるんだ)
見れば、今日がその後楽園ホール大会当日ではないか。
(勝手に名前使ったからってクレーム入れたら、いくらかもらえるかも)
狛ヶ峰は、とても大っぴらには出来ぬ卑しい心根を胸の裡に隠しながら身支度を調え始めた。大般若興行後楽園ホール大会に足を運ぶためであった。
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