第十三話「大般若興行への道」

 病身の息子から受けた激しい拒絶と憎悪の籠もった言葉。初めてのことで頭の中の考えがまとまらない。いや、この際俺のことなんかどうだっていい。浩太郎が生きる希望を失いつつあるということに、浩介は打ちひしがれていた。

 幼いころの浩太郎と一緒に遊んだ自宅近くの公園。浩太郎が拒絶したことで面会できなかった浩介の向かう先は、そこしかなかった。

 遊ぶ子供らの姿が消えて、ひとりゆらゆらとブランコに揺られる浩介の影が、夕暮れに長く伸びる。隣に並ぶもうひとつのブランコに誰かが座ったように思ったが、いまはそんなことを気にする余裕もない。外界のことで息子以外の事情を気にかける余裕など最早浩介には残されていなかった。

「憔悴なさっているようだ」

 隣に座ったのは子供ではなく大人の男。それも随分大柄の男だ。会社勤めであればそれなりの役職にあるような、威厳を備えた声であった。

「すみません。出来ればお静かに願えませんか」

 浩介は絞り出すように言った。

 どこの誰かは知らないし、こういうものの言い方が失礼に当たることを知らない浩介ではなかったが、息子から拒絶され父親の尊厳を失いつつあるいま、いや、何よりも息子が支えを失い生きる気力を喪失しつつあるいま、浩介はどこの何者とも会話をする気にはなれなかった。

「そうですか。失礼しました」

 男はそれきり黙ってしまった。


 不思議なことに男は、浩介の隣のブランコに腰掛け、ゆらゆらと軽く揺られたままその場を立ち去ろうとしない。

 お互いにひと言も発することなく一時間、そして二時間が経った。

 日はとっぷり暮れていた。

「あの……」

 男が浩介に向かって一声かけた。

「携帯電話が鳴っているようですよ」

 男の指摘に、浩介は我を取り戻した。ズボンのポケットに入れたスマホのバイブ機能がブルブルと震えている。雅恵からの着信だった。

「ああ、うん。いま公園。病院まで迎えに行くよ。待ってて」

 通話を終えた浩介は男に一礼してその場を立ち去ろうとした。その浩介に対して男は言った。

「なにがあったか知りませんが、気を落とされませんよう。

 それではまた」

 こう言われて初めて気付いたのだが、男は始めから浩介のことを気にかけていたのではなく、男自身のことを気にかけて欲しいと思い自分の隣に座ったのではなかったか。

 そう思うと、

「あなたこそ、お気を確かに」

 という言葉が自然と浩介の口を衝いて出た。

 ありがとう、とその男が不自然な笑顔を見せたとき、浩介は、気付いた。

「北乃花……理事長?」

 浩介は思わず口にした。

「はは……、それでは失礼します」

 乾いた笑い、それに引きつった笑顔を浮かべながら逃げるように立ち去ろうという北乃花。その後ろ姿を見て、浩介の顔にカッと朱が差す。

「あなた方は、なんてことをしてくれたんだ!」

 立ち去ろうという北乃花の足が止まる。

「あんたらのおかげで俺の息子が死んでしまうかもしれない!」

 浩介は吼えた。

 一生で一度、出るか出ないかという声で咆哮した。

「ひとつ言っておいてやる! 途中で取り上げるくらいなら、最初から与えない方が良いことだってあるんだ! 自分たちが何をしたのか、どれだけ残酷なことをしたのか、分かっているのか! この人殺しめ!」

 北乃花はひと言も反論しなかった。ただ一礼してその場から立ち去ろうというだけだ。

 小さく縮こまった北乃花の背中。

 浩太郎に罵られ、病室を後にしようという自分の背中もああではなかったか。

 そう考えると、浩介は散々罵ったついさっきまでの自分の態度も忘れ、その場を立ち去ろうという北乃花に

「待てよあんた!」

 と引き留めずにはいられなかった。

「はは、全部お受けしましょう」

 北乃花の相変わらず乾いた笑い。どうやら北乃花は、公園で話しかけた人物からいま浴びた以上の、有りっ丈の罵詈雑言を浴びる覚悟を決めたらしかった。

 これが、不祥事を惹起せしめた全理事長の宿命なのか。

 だが落ち着きを取り戻した浩介。しばし沈黙した後、北乃花にかけた言葉は

「……大変失礼なことを申し上げました。お許し下さい」

 というものであった。

 浩介は続けた。

「うちの息子は、狛ヶ峰のファンでした。理事長がご存知かどうかは知りません。難病と闘う子とのツーショットというキャプションで、『月刊角力』の記事に載ったあの子の私が父親です」

 浩介がそこまで言うと、いっそう深く頭を下げる北乃花。どうやら思い当たることがあるらしい。

めて下さい。悪いのはあなたではない。頭を下げなければならないのは私です。何も知らないくせに偉そうに……」

 この浩介の言葉に頭を上げた北乃花。北乃花は言った。

「あなたが息子さんを失おうというときに、下らない話をしてすみません。私も狛ヶ峰の不行跡で全てを失った者のうちの一人でなのです」


 北乃花は全てを浩介に語った。

 八百長問題が明るみに出て以降、理事長職を逐われ、長年連れ添った妻と離縁したこと。いまはなんの肩書もなく、昼の日中から近所をぶらつくより他にやることがないことなど。

「息子さんのために闘おうというあたなが羨ましい」

 北乃花は絞り出すように言って浩介に背中を見せた。

「理事長!」

 浩介の呼びかけに、北乃花が答える。

「もうその職は捨てました」

「明日、大般若興行に行きませんか。狛ヶ峰が来るかもしれません。直接狛ヶ峰に怒りをぶつけるには、明日後楽園ホールに行くしかないんじゃないですか」

 浩介は北乃花に、大般若興行後楽園ホール大会の概要について語った。もとよりプロレスなどというものに興味を抱かなかった浩介ではあったが、大般若興行の総帥大般若孝が狛ヶ峰への挑戦を頻りに口にしているとの噂を耳にして、俄に興味を抱いたものであった。もし明日、狛ヶ峰が大般若興行に姿を現したとしたら、北乃花ほど強力な助っ人は他にあるまい。浩介はそのように考えて北乃花を誘い、そして北乃花は無職になったいま、他にやることなどないので、この申し出を受けたのであった。

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