第十一話「大般若孝対玄龍天一郎」
大般若孝が対狛ヶ峰戦をぶち上げたことなど、全てを失い、単なる無職の大男に身をやつした狛ヶ峰の耳には届いていなかった。
長崎浩二は大般若孝がいつものような軽いノリのようなもので対狛ヶ峰戦をぶち上げたことについて苦々しく思っていたので、
「社長、どうすんのあの話」
と不機嫌そのものに申し向ける。
「どうすんのって、狛ヶ峰戦の話?」
「他に何があるんだよ」
どうせ策も何もないんだろう。そう言いたげな長崎浩二である。
「長崎さあ、次のシリーズ、
「げえッ!? あの玄龍さんが!?」
「大般若が横綱とやるなんて百万年早い、まずは俺の屍を越えていけだってよ」
大般若孝がニヤニヤしながら京スポ記事を長崎に見せて言った。
大相撲力士に限らず、プロレスラーとして大成した他のプロスポーツ経験者に共通するのは、自分の出身母体である競技と、プロレスリング双方に対して強いリスペクトの念を持っている、という点である。
例えば坂口征二などは柔道で大を成し、昭和三十九年の東京オリンピックでは神永昭夫を破って金メダルに輝いたアントン・ヘーシンクと引き分けたほどの実力者であったが、転向後は柔道のことは一旦忘れたかのようにプロレスに徹している。
一方、あまり知られていないが、あのモハメド・アリもプロレス界とは因縁があった。アントニオ猪木との格闘技世界一決定戦のことではない。実はエキシビションマッチとしてプロレスラーと試合をした実績があったのだ。そのアリのプロレス界とのつながりによって、格闘技世界一決定戦ではアリサイドに力道山とも闘ったことのある「銀髪鬼」フレッド・ブラッシーが付くという流れになるわけだが、兎も角もプロレスとはどういうものかを知っていたアリは、猪木がブックなしの真剣勝負を求めていると知って、相手のプロレス的ムーブメントのほとんどを禁じるルール設定、謂わば「塩対応」を見せて観客を白けさせている。プロレスというものについて理解が足りずこれを軽んじ、大成できなかった好例であろう。もっとも、アリがプロレスでの大成を望んでいたとは思われないが。
玄龍は坂口と同様に、自らの出身母体である大相撲と、そしていま自分が立っているプロレスのリング双方に強い尊敬の念を抱いていた。とりわけ大相撲の現役時代、逆立ちしても勝てなかった横綱に対する畏敬の念は他のどのレスラーよりも強い。業界ではよく知られた話であった。
この玄龍天一郎が、対狛ヶ峰戦をぶち上げた大般若孝の前に立ち塞がろうとしているのである。これで世間が湧かないはずがなかった。
「玄龍さんなりの援護射撃だねこれは」
震える手で京スポ記事を見つめる長崎浩二に対して、大般若孝がにやりと笑った。
「信じられないぜ……」
長崎浩二が、青コーナーに立ちながらタッグパートナーの大般若孝に語りかける。語りかけるが二人とも、対戦相手である赤コーナーの玄龍天一郎、千手観音
長崎が信じられないと口にした所以は、全く接点のなかった玄龍との一戦が、狛ヶ峰との対戦要求を機に一気呵成に実現したことを指していた。思わぬ副産物であり、ファン目線から見ても興味をそそられるカードに違いなかった。
今日この試合、大般若興行では珍しくノーロープ有刺鉄線デスマッチではない。通常のタッグマッチ形式として行われることとなった。いつもは凶器としての存在価値しかないゴングが、この日ばかりは試合開始をリング上のレスラーや観客に知らしめる本来の用法に則って使用された。
先陣を買って出たのは千手観音源、そして長崎浩二だ。
ゴングと共に古典的なカラー・アンド・エルボーの体勢から始まるスタンダードなレスリングである。日頃は凶器使いたい放題、レスリングの「レ」の字も知らないように思われた長崎浩二が、ほとんど初めて見せると言っても良いレスリング・スタイルを見せたことで、組み合っただけだというのに会場がどよめく。
その長崎をヘッドロックに捉える千手観音。長崎がこれをロープに振ると、帰ってきた千手観音によるヒットマンラリアットだ。長崎がたまらず仰向けに倒れる。だが序盤ということもあってクイックリターンする長崎。片膝立ちのまま千手観音と睨み合う。
その千手観音が、タッチロープを握ってエプロンサイドに立つ大般若を挑発する仕草を見せる。これに応じて長崎浩二にタッチを求める大般若孝だが、やられっぱなしでのタッチを良しとする長崎浩二でもない。これを無視して千手観音と再びカラー・アンド・エルボーの体勢だ。またも長崎浩二をヘッドロックに捉える千手観音源。長崎浩二がこれをロープに振った。
再度ヒットマンラリアットかと思われた刹那、千手観音の脚をカニばさみに捉えた長崎浩二。前につんのめるように倒れ込んだ千手観音が、喉頸をロープに
その隙に長崎が大般若に交替。大般若孝がリングインしただけで大変な歓声だ。
咳き込みながら喉を押さえる千手観音源。押し寄せた人々が何を求めているか、見極めるように会場を見渡す。
何かを悟ったかのように軽く頷き、そしてエプロンサイドから手を伸ばす玄龍天一郎にタッチすると、会場のボルテージはそれだけでこの日最高潮。静かに、そして激しく睨み合う大般若孝と玄龍天一郎に、観客は総立ちだ。
先に動いたのは大般若孝だった。
玄龍の顔面に左右から激しく張り手を見舞う。ディフェンスすることなく受けるだけ受ける玄龍。だが我慢も限界に達して腰が落ちる。そこへ立て続けに大般若のノータッチヘッドバッドだ。二度三度と打ち込まれる。
すると玄龍、怒りが頂点に達したかのように反撃に転じる。代名詞ともいえる逆水平チョップの連打だ。ティーシャツを着ているというのに、叩かれる大般若の胸元から肉弾相打つ破裂音がバシバシと会場にこだまする。たちまちコーナーポストに追い詰められた大般若。玄龍がその大般若孝にナックルを打ち込む。
レフェリーが反則カウントを入れるが、これをはねのけてなおもナックルを叩き込む玄龍。
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