第十話「荒れる横綱」

 ほんのひと月前まで、このような事態が自身を見舞うことになるなど一体誰が予想し得たであろうか。史上最強を謳われた実績を誇り、あまつさえ直近に行われた本場所である名古屋では復活優勝を十四勝の好成績で遂げた狛ヶ峰である。

 そのうちのたった一番。

 たった一番での注射相撲打診が明らかになってしまっただけで、なにゆえ自分は辞めなければならなかったのか。

 理事長と揃って会見したあの時、狛ヶ峰は逃げるようにして会見場をあとにした。そのときの後ろ姿は見たこともないほどに小さく縮こまったものであったが、時間が経つにつれ狛ヶ峰の心中に生じたのは、開き直りともいえるこのような感情だった。

 対戦相手の証言により裏付けられた注射相撲打診は名古屋場所中日の対連山戦だけで、京スポ記事では、影響があるとして江戸錦の名は伏せられていた。

 実際のところ、証言が対戦相手から得られたのが連山戦だったというだけで、この場所で狛ヶ峰が挙げた十四勝のうち、ガチンコは四番しかなかった。これが実情だったのだ。

 だから狛ヶ峰が、

「何故自分は辞めなければならないのか」

 と怒ることは筋が違う話だった。

 しかし一方で、十番の注射相撲は裏付けが取れたわけではない。

 連山戦で注射相撲を打診したことにより「クロ」とされた狛ヶ峰だったが、その取組では狛ヶ峰は一方的に勝利しているし、霧乃山戦は八百長打診疑惑が噴出しはしたが、霧乃山がそのことを証言することはなかった。疑惑は灰色のままのはずだった。

 つまり、狛ヶ峰は連山戦では注射相撲を打診したが断られ、ガチンコで勝利しており、疑惑のある霧乃山戦ではこれもガチンコ勝負の末敗れているのだ。つまり、注射相撲による白星の証拠が世に出たわけではなく、かえってその二番についてはガチンコ勝負だったことが裏付けられた形であった。

 にもかかわらず、詳しい調査もそこそこに追放されるような形で引退を余儀なくされたことに、狛ヶ峰は己が不行跡も忘れ憤怒した。

 憂さを晴らすため連日飲みに繰り出すが、ちょんまげを載せた頭と巨体は否応なく目立ち、そこかしこから

「八百長横綱」

 と揶揄され罵られているような気がして、狛ヶ峰は自宅に引き籠もるようになった。

 やることといえば昼の日中ひなかから酒、酒、酒である。百九十五センチ、百六十キロの巨体ともなると、飲む量は半端ではない。

 狛ヶ峰が冷蔵庫を開けると、中身は既に空っぽである。

「お~い! なんだこれは! 空じゃねえか!」

 昼を過ぎたばかりだというのに早くも呂律の回らぬ狛ヶ峰。妙子夫人が財布を持って買い出しに出る。

 帰宅した妙子夫人が、三百五十ミリリットル缶六本セットの缶チューハイをどんっ! と卓上に置いた。

「なんだその態度は」

 狛ヶ峰が据わった目で妙子夫人の所作を咎めた。妙子夫人も負けていない。

「もうこれで最後だから」

「んなはずねえだろ。これまでどんだけ稼いできたと思ってるんだ」

 酔いが回っているとはいえ狛ヶ峰の発言はそれはそれで真っ当なものであった。相当値の張る酒を何百本買ってもおつりが来る程度には蓄えがあるはずだ。

 狛ヶ峰はそう考えていた。

 

 年収にして三千万円。

 野球選手の年俸などと比較すればかなり安価なように思われるが、力士にはこれ以外にも俗に「タニマチ」と呼ばれる後援者から頻繁に小遣いが渡された。ある横綱など、タニマチから渡されたアタッシュケースをありがたく拝領すると、中に入っていたのは一束百万円の札束がン十束。これには豪遊で鳴らしたこの横綱もさすがにたまげたと伝えられている。額面には入らぬ大きな副収入であった。

 なので妙子夫人が、わずか六本セットの缶チューハイを買ってきては

「これで最後」

 と言ったのは、こと金銭面からいえば真実ではないと狛ヶ峰は考えた。

「他にやることがねえんだ。酒ぐらい気持ちよく飲ませろ」

 狛ヶ峰が、早速缶チューハイを手に取る。

 グビグビとこれを飲み下す横で、すっかり冷え切った目つきの妙子夫人。酒飲みの亭主に愛想を尽かしつつあるのか。


「生活費、どうにかしてよ」

 妙子夫人が放ったこの言葉に狛ヶ峰が反論する。

「いくらでもあるだろ」

「ないわよ」

「嘘吐くな」

 狛ヶ峰が生活費の困窮を認めようとしないので、妙子夫人が預金通帳を示す。預貯金額は百万に届かない。目を疑う狛ヶ峰。引退後は一代年寄として部屋を興すのが既定路線だった狛ヶ峰は、そのための資金が必要だった。その話は妙子には常々語って聞かせているはずであった。

「なんだこれは」

 手の震えを止めようとするが、どうにも止められない狛ヶ峰。百万にも届かぬ預金額では部屋を興すことなど到底不可能である。それどころか都心の高級タワーマンションに住まう身としては、来月の生活費すら危うい。

「なんだこれはって、うちの貯金ですけど」

 妙子が平然と答えてのけた。

「貯めとけって言ったろ」

 狛ヶ峰が妙子を咎める。

「ふん」

 鼻であしらう妙子。

「あなた、自分で毎場所いくら持ち出してたか分かってんの?」

「……嘘だ」

 妙子は浪費の責任を狛ヶ峰による星の買い取りに押し付けようとしているようだが、そういえば妙子は海外旅行だブランド品の購入だと称して節約しているようには見えなかった。

「お前だって使ってたろ!」

「あんたほどじゃないわよ!」

 途端に沸騰する狛ヶ峰の怒り。

「うおーッ!!」

 突如雄叫びを上げて卓上の缶チューハイを手で払い、家具に当たり散らし始めた。部屋中のガラスというガラス、鏡という鏡を叩き割り、拳は血だらけだ。

 妙子はそんな狛ヶ峰を尻目に、疾うの昔にまとめていた荷物を持ってマンションを飛び出していった。

 狛ヶ峰の手許に残った預貯金額では、このタワーマンションのひと月分の家賃も支払うことが出来ない。妙子はそのことを知っていて、あらかじめ脱出準備をしていたのであった。

 目減りする貯金額に怯えながら、なけなしの金で買った酒に逃げ場を求める狛ヶ峰。

 数日後。郵便受けには、妙子のサインが入った離婚届が投函されていた。

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