第十九話「連山の不満」

 右膝を装具で固め、松葉杖をつきながら理事長室のドアをノックしたのは名古屋場所八日目に狛ヶ峰に張り倒され休場を余儀なくされた連山である。連山への注射の打診が断られたために狛ヶ峰がフラストレーションを募らせ、勝ちはしたが狛王に命じて狛犬をかわいがらせた事実がある以上、この男の口も封じておかねばならない。

「まあ座れ」

 北乃花理事長は入室した連山に、ソファーに座るように勧めた。

「一回座ったら次立つのが大変っすから」

 連山はくすりともせず理事長直々の勧めを断った。

「なんだ拗ねてるのか」

 本来頑固で不器用な男である。いくら積まれても注射に応じなかったのはその頑固さ以外にも、不器用であるがゆえにわざと転ぶような真似が出来なかったことによる。

 そしてこの連山も、現役時代の横綱北乃花に憧れて入門したクチであった。その憧れの人物が、この千載一遇のチャンスに際会して注射相撲撲滅に動くどころか証人たる自分の口封じに動くとは。

 連山はその不満を隠そうとしない。

 無論連山の憤懣に気付かぬ理事長ではなく、

「お前の考えていることは分かる。これを機に注射を撲滅せよ。

 そう言いたいんだろ」

 北乃花は連山と視線を合わせるでもなく中空を睨みながらそう言った。

「だがな、もし今、狛犬の言った内容を認めたらどうなると思う? 今の世論を見てみろ。狛ヶ峰も叩かれとるがほとんど協会への批判一色じゃないか。世間は決して協会を許さんだろう。

 公益法人としての認定も取り消される可能性がある。そうなれば税制上の優遇措置が受けられなくなり純然たる興行団体として収益を上げていかなければいけなくなるんだ。

 巡業や本場所だけで七百全力士の生活を支えていかなくちゃいけないんだぞ。お前ひとりの胸三寸でどうにでも出来る問題じゃないんだ。分かってるのか」

 情理を尽くして説明する北乃花理事長。それは心の底から絞り出した言葉であった。

 公益財団法人たる協会には相撲競技の指導と普及、相撲に関する伝統文化の普及と、幅広い人たちに大相撲観戦の機会を供するという目的がある。かかる目的に公益性が認められているからこそ税制上の優遇措置が得られているのである。

 注射相撲の蔓延はそういった協会の公益性が否定されかねない重大問題であった。事実、野球賭博事件に端を発する大相撲八百長問題では公益財団法人としての認定取消に言及する一部議員も存在したほどで、協会は急遽、観客から入場料を徴収しない「技量審査場所」なる開催形式に切り替えて、謝罪と反省の意を世間に示してこの危機を切り抜けている。

 その記憶は協会関係者の間で生々しく共有されていた。

 もし狛犬の供述について、その裏付けが現役力士の間から取れたというのであれば衝撃の度合は大相撲八百長問題を凌駕するであろう。北乃花はなんとしても、どんな不満を抱いていようが連山の口を封じてしまわなければならなかった。

 しかし、である。

「俺が悪いわけじゃないっすから。

 注射したの、横綱の方っすから」

 とぶっきらぼうにこたえるだけだ。

「そんなことは分かっとる。しかし認めるわけにはいかんだろ。お前、七百人が路頭に迷ったら責任取れるのか」

「責任は横綱に取ってもらったらいいんじゃないですか? それくらいの覚悟で星を買ってたんでしょ横綱は。

 自分が一体なんの責任を負わなきゃいけないんですか」

 連山の言い分は正当であった。誰も狛ヶ峰に注射相撲をするように頼んだ者などいはしなかった。狛ヶ峰が自己の栄達を欲して、自分の資金を投入して白星を買った。ただそれだけの話であった。

 連山は狛ヶ峰が星を買うことについて何も強制はしなかった。その連山が本件に関してどのような責任を負えば良いというのであろうか。

 だがこれは連山の言い分であり、協会のトップに立つ北乃花理事長には組織防衛の観点からこの問題を解決に導く責任があった。

「お前の言ってることはそのとおりだ。だがその理屈で貫き通して協会まで倒れてしまったら、結局困るのは俺達じゃないか」

「自分、もう十分困ってますから」

「右膝の怪我か」

「……」

 名古屋場所中日八日目、結びの一番で連山は狛ヶ峰の左の張り手を浴びて失神昏倒させられた。土俵に崩れ落ちた際、右膝が有り得ない方向に曲がり、右膝外側靱帯断裂、同半月板損傷の重傷を負っている。

 特に半月板損傷については砕けた半月板が膝の関節内に散らばって極めて予後の悪い症状と診断されていた。第六十五代横綱貴乃花を引退に追い込んだ重傷だ。貴乃花は負け越したり休場しても地位が落ちないという横綱の特権を活かし、約一年の連休を取って治療に当たったがそれでも完治はしなかった。

 しかも平幕の連山に横綱の特権はない。一年という期間をかけて治療に当たることが許される立場ではなく、担当医からは遠回しに引退を勧められたという。

 単に張り手でのされたというだけならばここまでやさぐれることもなかっただろうが、悪しき因習に手を染めなかった結果がこれかと考えると連山でなくとも自暴自棄になって当然であった。

 そんな連山に対して

「張り手は食らう方が悪い」

 という言葉が出そうになった理事長。慌てて口籠もる。

 今の連山にそんな技術論は逆効果だった。

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