第十二話「狛犬入門其之二」

「将来の横綱候補」

 そんな二つ名で呼ばれ、稽古場で無敵を誇った廣田司少年は、相撲部屋というところが居心地の良いところのように錯覚したという。厳しい上下関係に拘束されて自由な時間などないものと思っていたが、父親経由で聞いた父の上司の話にあったように、いまはどの相撲部屋も新弟子不足で人を大切にする、という話はどうやら本当のことらしかった。

 司少年がカモにしたのは三つ年上の兄弟子狛王であった。見よう見まねで四つに組み止めると、テレビで見たことがある上手投げという技を繰り出してみた。すると狛王は面白いように土俵に転がった。

「ちくしょー!」

 狛王は稽古場の土俵を拳で叩いて悔しがった。

 稽古の終わりには、部屋頭たる狛ヶ峰に指名された弟子が狛ヶ峰の胸を借りてぶつかり稽古をした。受ける狛ヶ峰が右足を前に踏み込み評腕を拡げて待ち構える。そこへ頭からぶつかって行くのである。強い当たりで押し込めば転がされ受け身を取らされるし、当たりが弱いと判断されれば首根っこを押さえつけられすり足をさせられる極めてハードなトレーニングである。ぶつかる側はあっという間に息が上がってしまった。

 廣田少年はその稽古を間近に見て厳しさに戦慄したが、青い顔をした廣田少年に、狛王がそっと呟いた。

「廣田さんは大丈夫っす。あんなことしなくても十分強いっすから」


 稽古場以外では、たとえば稽古後のちゃんこ番を、最初は新弟子だからと殊勝にも買って出た廣田少年であったけれども、

「そんなところ見られたら親方にどやされます」

 と他の兄弟子が言うので、

「いいんでしょうか」

 とおそるおそる周りに聞いてみると、

「ここじゃ実力が全部ですから」

 という答えだ。真に受けてその気になった廣田少年はそれ以上ちゃんこ番の手伝いをすることがなかった。

 要するに、稽古場で無敵を誇る廣田少年に、たとえ新弟子とはいえ部屋の雑用はさせられない、という理屈である。

 ここに至り、ついに廣田司少年は入門を決意した。


 廣田少年は狛犬翔司の四股名を与えられたのと同時に、「将来の横綱候補」の二つ名を返上しなければならなくなった。

 正式に入門してからこっち、狛犬が兄弟子相手に勝つということはなくなった。

 入門したてのころは、軽く捻って倒していた兄弟子の狛王あたりとやってみても、岩のようにびくともしない。

 人より大きな身体を見込まれて入門した狛犬だったが、それは飽くまで一般社会に身を置いていた中での話で、百八十センチ、百キロオーバーの体軀など相撲界では並以下に過ぎない。なので本気になった狛王相手に上手を取るどころの話ではなく、ぶつかっただけで目から火花が散る体たらくだった。

 稽古の終わりには洗礼のようなぶつかり稽古。

 当然ちゃんこ番などの雑用を容赦なく言いつけられた。

 これが嫌なら文字どおり強くなれば良いのだ。ただそれだけの話である。

 だが、これまで何人かの新弟子を見てきた兄弟子達は、どういう類いの人間が強くなるかを経験上よく知っている。何の志もなく入門してきた狛犬に将来性を見出す者は、親方や狛ヶ峰は勿論のこと、他の弟子達の中にも皆無であった。

 要するに狛犬は騙されていたのである。体験入門の若者を部屋に繋ぎ止めておくために親方連中がよく使う手だ。兄弟子達も新弟子に雑用を押し付けたいからこれに協力して、誰も廣田少年に本当のことを教える者などいはしないかった。

 狛犬は臍を噛んたがもう遅かった。おだてられその気になって入門した自分が馬鹿だったのだ。

 何度か脱走を試みたがことごとく失敗した。

 新弟子ひとりあたりに協会から補助金が出る仕組みとあって、弟子は多ければ多いほど良い。たとえ将来性がなくとも、新弟子をスカウトするのはそのためだ。

 脱走、廃業は補助金のカットを意味する容認しがたい行為と見做され、徹底的な追跡がおこなわれた。狛犬は逃げ切れず、二度の脱走はいずれも失敗に終わっていた。

 以来二年、行きがかり上今日まで相撲取りをやってます、と締め括ったのが、横河巡査部長が軽く聞き取った狛犬翔司の身上であった。

 情状意見作成上の参考とするための取り調べであったが、本件の動機に重大な示唆を与える内容と捜査幹部は判断した。

 狛犬は意に添わぬ形で入門した宮園部屋で、兄弟子達に対し密かに不満を募らせていた。その鬱積した不満が、何らかの出来事を引き金にして爆発したのが今回の事件だと見立てたのである。それは捜査幹部の独りよがり的な見立てではなく、世間一般もそのように考えていた。或いは、「世間が求めているストーリー」だったと表現しても良いだろう。

 相撲界という閉鎖的な体育会系社会特有の風土こそが事件の温床である、という見方は、世間の協会に対する批判精神を満足させるものであった。


 さて狛犬の身柄は、事件の社会的反響を考慮して、中警察署ではなく愛知県警察本部留置施設に留置された。その日の夜遅く、日付が変わって以降のことであった。

 留置施設では幕下以下の力士が常用する浴衣の着用は認められない。首吊りなどの自殺に使われる恐れがあるからだ。狛犬の場合、取調室で号泣した経緯などが中警察署から本部留置施設に申し継がれており、処分を恐れ、或いは将来を悲観して自傷行為に及ぶ可能性が懸念された。

 狛犬には浴衣ではなく留置施設の備品である上下灰色のスウェットが支給された。巨体に合うサイズがあるかどうか心配されたが、最も大きいサイズのスウェットがかろうじて狛犬の体を収めた。大きな身体は、自らが起こしてしまった大事件に震え上がり、縮こまっていた。


 翌日の取り調べで、狛犬は横河巡査部長に対し

「俺、死刑っすか」

 と訊いた。

 殺人罪の法定刑は前述したように「死刑又は無期若しくは五年以上の懲役」であり、死刑というのも一概に誤りとはいえない。

 ただ、言葉は悪いが刑罰にも相場というものがある。殺人罪の場合、被害者が単数であれば死刑を忌避されるという、いわゆる「永山基準」のことである。

 横河とて「永山基準」について全く無知というわけではなかったが、この場で量刑を云々する資格を、一取調官に過ぎない横河は持たない。

 なので横河は表情を硬くしながら

「俺が決めるわけじゃないけど」

 と前置きしながら、ごく事務的に殺人罪の法定刑を狛犬に告げたのであった。

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