第十話「取調べ」
宮園部屋令和○年名古屋場所打ち上げパーティー兼部屋の横綱狛ヶ峰優勝記念パーティーの会場において、テーブル上に不用意に置かれていたケーキナイフを使って兄弟子狛王の腹を刺し、その肝臓に達する傷を負わせた狛犬は、現場に駆けつけた愛知県中警察署員により殺人未遂の現行犯人として逮捕された。
応急処置も及ばず、同日午後十一時五分、狛王は搬送先の病院で死亡した。
狛犬の容疑は殺人未遂から殺人に切り替えられた。
「先輩はどうなったんでしょうか」
取調室において、狛犬は自分が刺突した兄弟子の容態を気遣う発言をした。自らの罪科を少しでも軽減する目的で、反省の意を表しているつもりだったのであろうか。だがこれから狛犬の取り調べにあたろうという刑事に、そんな狛犬の心情を斟酌する余裕はない。
力士が力士を刺殺したという異様な事件が、愛知県警本部刑事部捜査第一課横河巡査部長から余裕を奪っていた。
「ついさっき死んだよ。今から容疑が殺人未遂から殺人に変わるからな」
横河巡査部長からそう告げられた狛犬は、取調室の机に突如突っ伏して泣き崩れた。
「そんなつもりじゃなかったんです! まさかこんなことになるなんて!」
感情が
ただ、罪名が変わるのだから、罪名変更の告知は絶対に踏まなければならない手続きである。本人が何の罪で身柄を拘束され、取り調べを受けているのかという基本的な事項については告知を受ける権利が、被疑者には当然ある。
殺人の罪の場合、法定刑は「死刑または無期もしくは五年以上の懲役」と定められており、同罪の未遂罪もまた同じである。
ただし刑法第四十三条には未遂罪の減免規規程が設けられている。自己の意思により犯行を中止した未遂罪は刑を減免される「必要的減免」。その他に、何らかの事情により犯行を遂げなかった場合に刑を減免できる「任意的減免」の二つである。
本件の場合、狛犬が自らの意志で犯行を中止したと評価できる余地はなく、本罪の未遂が成立するか否かは、狛王が死ぬかそうではないかという事情如何にかかっており、その意味では狛犬に未遂罪の必要的減免規程が適用されることはあり得ないものの、狛王が幸いにして死を脱すれば任意的減免の対象になり得る可能性があった。
そして狛王の死は、下手人たる狛犬の罪が、必要的減免の対象はおろか任意的減免の対象にもならないことを意味していた。取調室の無機質な事務机に突っ伏す大男には、必要的減免だとか任意的減免だとか、中止未遂といった法律的知識など皆無であるが、自分が刺した相手が死ねば課せられる罪科が一層重くなるであろうことは小学生でも分かる当然の理屈であり、蒙る罪の重さのために狛犬は号泣したのであった。
横河巡査部長は号泣する狛犬が少し落ち着くのを待って、その身上について取り調べを開始することとした。
警察で取り扱う事件は、全件検察庁に送られるのが原則であった。これを送致とか送検という。
警察から事件を受け取った検察庁は、今度は被疑者を起訴するか否かの判断をしなければならない。検察官が起訴すれば裁判になるし、いろいろな事情で起訴しない事件も世の中には実際ゴマンとある。
警察から送られてくる事件は文字どおりピンからキリまであるので、個人官庁たる検察官がいちいちその判断していたのでは身が持たない。そこで事件を送致する側である警察が、検察官に対し「この被疑者は厳重処分」又は「寛大処分が適当」或いは「相当処分で」などと意見を付すようになっている。これを情状意見という。
では警察側では情状意見をどのように決定するのであろうか。
事件の社会的反響は情状意見を付する上で重要視される要素のひとつであろう。本件の場合、幕下以下の力士とはいえ、協会に属する力士が殺人事件の被疑者となり、被害者となったのであるから、世に
社会的反響と大きく関係するのが犯罪の重大性だ。
芸能人が事件を起こせば社会的反響は大きいといえるだろうが、それがたとえば単なる立ち小便程度であれば社会的反響が大きくても罪の重さは大きいとはいえない。何度も立ち小便で捕まった前歴があるのに懲りもせず、というのならいざ知らず、単に芸能人だからという理由だけでは立ち小便如きで厳重処分の意見を付されることはまずない。
つまりは本人の前科前歴も情状意見を付する上で参考になる要素ということだ。過去に悪事をたくさん働いてきた犯人と、初犯で前科前歴が全くない犯人とで、付される意見が同じというのでは割に合わない。因果応報ではないが、何度も同じ悪事を働く人間にはそれなりに厳しい意見が付されるようになっているものである。
横河は情状意見を付する際の参考にするため、狛犬の前科前歴を含めた素行を取り調べようとしていたのだが、狛犬があまりに嘆き悲しむので、少しの間落ち着くのを待ってやらねばならなかった。
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