第九話「確執」

 それでは年寄名跡を増やせば良いではないかという意見もあるかもしれない。たとえば大企業がスポンサーとなって相撲ジムを創設し、新人の育成、その他各段力士のトレーニングを目的として、引退した力士をコーチ等のスタッフとして雇用するという形態である。

 この場合であっても、年間に何十人も引退する力士の受け皿とはなり得ないだろう。なんといっても分母が大きすぎるのだ。

 それに相撲界というのは極めて排他的な世界である。 

 基本的に親方連中は、

「大相撲の力士を育てるには大相撲経験者でなければならない」

 と考えている。

 確かに近年、専門のトレーナーに付いて身体を作る力士も増えてきたというが、ではそういったトレーナーがその力士を育てたかといわれると、決してそうはならないだろう。

 相撲は競技である以前に神事なのである。神事だから作法がある。科学的なトレーニングの知識に長けていても、トレーナーは相撲界で必要とされる作法については知らない。これが、トレーナーが師匠たり得ない最大の所以である。

 余談が過ぎたが一代年寄の説明に戻ろう。

 このように数に限りのある年寄名跡であり、無制限に増設したところで結局は引退力士の受け皿になり得ない年寄制度であるが、絶対に増設できないわけではない。

 現役時代に顕著な成績をおさめた力士に、協会から一代限りの年寄名跡を贈呈することがある。これが一代年寄である。

 無論、前述の現役名の年寄のように期間限定ではない。きっちり定年まで勤め上げる資格を有している。

「顕著な成績」の線引きは優勝回数が概ね二十回とされているから、名古屋で五十七回目の幕内最高優勝を果たした狛ヶ峰は、一代年寄贈呈の基準を大きく上回ってほとんど確実視されていた。狛ヶ峰自身も一代年寄贈呈を見越して、引退後は宮園部屋の力士を十数人規模で引き連れ独立することを目論んでいた。


 現役時代の実績は十分。

 宮園部屋でも師匠の宮園親方を差し置いて稽古を取り仕切っているのは実質的には狛ヶ峰であり、宮園親方はお飾りに過ぎないというのが実態であった。見ようによっては、中警察署に招致された宮園親方よりも狛ヶ峰のほうが部屋の事情に通じているとさえいえた。佃山が北乃花理事長に、狛ヶ峰からの事情聴取を勧めたのはそのためだ。

 だが北乃花理事長は会見に先立って狛ヶ峰から事情聴取することを拒否した。

「俺は口が上手くない。もし狛ヶ峰から事情聴取を聞いて、まずい話を知ってしまったならば記者会見で隠し通せなくなるだろう。そうなるくらいだったら最初から何も知らない方が良い」

 そう言って狛ヶ峰からの事情聴取を一切せず、理事長は記者会見に臨んだ。

 北乃花理事長は自らが制御できない事態を前に、一つひとつの懸案を処理していくことで精一杯であった。


 ここで、北乃花理事長の足跡を辿ってみたい。

 横綱在位五十場所。幕内最高優勝二十一回は歴代八位であり、歴代一位を更新した狛ヶ峰と比較すれば、数字の上では確かに見劣りを隠せない。ただ、この横綱の現役時代を知る者のうちの多くは、歴代最強横綱に必ず北乃花の名を挙げた。

 北乃花の勝負に対する執念、相撲道に取り組む真摯な姿勢は稀有であった。

 北乃花が偉大だったのは、殊更にそういったことを口にせず、土俵態度で示し続けた点にこそあった。

 この点、歴代横綱の名を挙げて

「偉大な先達」

 とことあるごとに口にする狛ヶ峰の小賢しさとは好対照であった。

 身長百八十五センチメートル、体重百五十二キロという数字は、ひと昔前ならいざ知らず、大型化が進展していたその頃の相撲界の中でも取り立てて大きい方ではなった。

 優勝二十回を数えたころから身体の故障が相次ぎ、優勝から遠ざかった。このあたりの事情も北乃花らしい。

「相撲は競技である前に神事」

 という理由から、テーピングを巻いたりサポーターを着用することがほとんどなかったのだ。身近に北乃花を見ない者は、北乃花が満身創痍であることなど及びも付かなかった。限界に達する直前まで、北乃花が身体のあらゆる箇所に故障を抱えているということをまったく感じさせなかった。

 結果的に最後の優勝を果たしたとき、北乃花の右膝は限界を超えた。優勝の代償は高く付き、北乃花は引退を決断する。

 ただ、その引退会見は他の力士のようなお涙頂戴物にはならなかった。

「現役は退くが、戦いは今後も続く」

 引退会見に応じるその姿から新たな戦いに向けた闘志が滲み出て、他に類例のない緊張感を醸す引退会見になったものであった。

 現役時代に真摯な土俵態度で知られた北乃花親方だけに、育成方針は峻厳そのもの。最初の十年はなかなか芽が出ず、

「名選手、必ずしも名伯楽ならず」

 を地で行くかと思われたが、ようやく幕内に定着する弟子をひとり送り出すとあとは早かった。現役では次期大関を狙う北登きたのぼり部屋頭へやがしらに、十両以上で五人の関取を擁する一大勢力となりつつあった。

 弟子の育成が軌道に乗り始めると同時に、協会内でも重きをなすようになり、現役時代に示した真摯な土俵態度から多くの親方衆の支持を集めて理事長に就任した。

 その北乃花理事長にとって、最も許せないのが、狛ヶ峰の「故意による無気力相撲」であった。

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