第四話「もうひとつの戦い」
「やった! ママ、
病室に
「本当だね。うれしいね、浩くん」
浩太郎の母親、
母の視線に気付かず、ただテレビの中のヒーロー、狛ヶ峰に見とれるばかりの浩太郎。
「
浩太郎の喜びようはひととおりではない。見れば、病室のテーブルには狛ヶ峰のサイン入り色紙。朱で手形が
「浩太郎くん江」
とある。
「浩太郎くんの応援が届いたのよ、きっと」
看護師の中岡も、年の離れた姉のような眼差しで浩太郎に優しく声を掛ける。
「狛ヶ峰も頑張ったんだから、浩くんも病気なんかに負けてられないね」
「当たり前だよママ。僕頑張るよ」
浩太郎は雅恵や中岡が驚くほど張りのある声でそうこたえた。
「浩くん、最近よく転ぶのよ」
雅恵が浩太郎の異常に気付いたのは、浩太郎が四歳のころだった。
「小さいうちは転んでなんぼだよ。気にする必要ないんじゃないの?」
夫の
雅恵は渋る夫を説き伏せて浩太郎を病院に連れて行った。
あらかじめ
「子供 よく転ぶ 病気」
というキーワードで病名を検索していた雅恵だけあって、病院選びは的確だった。だがそんなことを褒められたからといって、一体どれほどの価値があるというのだろう。
いくつかの検査を実施した結果、告げられた病名は筋ジストロフィー。しかも予後の悪い型だという。十歳そこそこで車いす生活を余儀なくされ、長くても三十まで生きのびることが出来るかどうか……。
医師は申し訳なさそうに
「筋ジストロフィーの患者さんはほとんどがこの型です」
と言ったが、そんなものは雅恵にとってなんの慰めにもなりはしなかった。
雅恵の視線はぼんやりと中空を漂うばかりだった。その、まばたきを忘れたような瞳からぼろぼろと涙がこぼれた。
「私が代わってやれる方法はないでしょうか。なんとか、そういう方法を見付けてもらえませんでしょうか」
雅恵は、病名を告げた医師にうわごとのような言葉をかけたことを、あとから夫に聞いて知ったという。
浩太郎がこのような症状に見舞われなければ、ひとつひとつ年を重ねては子の成長を手放しで喜ぶことの出来る、ごく普通の家庭になるはずだった。だがこの日を境に、一家にとって過ぎていく時間は、愛する一人息子が次第に身体機能を喪失していく日々になった。
「僕、この先どうなるんだろう」
これが、当時七つだった浩太郎が雅恵に言ったひと言である。
症状は決定的に悪化してはいなかった。してはいなかったが、同じ年頃の子供達と同じ学校で日常生活を送っていた浩太郎が、同級生と比較して身体能力の衰えを自覚するのは当然の成り行きだった。
「あの子、この先どうなるんだろうって……」
雅恵は職場から帰宅した浩介にそう切りだした。夕食をとろうという浩介の手が止まる。
浩介は寝静まった浩太郎の寝室を覗いた。子供部屋は二階にと考えていた夫婦だったが、階段からの転落というリスクを避けるために浩太郎の部屋を一階に移したのだ。
「起きちゃうわよ」
雅恵は止めたが、浩介は構わず浩太郎の寝室に入ってその寝顔を覗き込み、ひとしきり見つめて寝室を出た。
「本当のことを伝えよう」
後ろ手に襖を閉じた浩介が、絞り出すように言った。
「本当のことって……まさか」
雅恵の声が震える。
「そうだ。病気のことだ」
「駄目よ!」
反対する雅恵に、浩介が
「何故だ」
と訊いた。
「何故って、三十まで生きのびることが出来るかどうかなんて伝えたら、浩太郎がかわいそうじゃないの」
「かわいそう?
大丈夫だと甘い言葉を重ねられて本当のことをなにひとつ知らされないまま死んでいく方と、残された時間を自覚して一生懸命に命を燃やす方。
どっちがかわいそうだろうね。本当にかわいそうなのはどっちだろうね」
「だからって……」
「浩太郎は賢い。自分の病気がどんなものか、きっとうすうす勘付いてるんだろう。そうじゃなかったら、この先どうなるんだろうなんてあの歳で考えたりするものか。
俺たち夫婦は浩太郎にとってなんだ? この世界で一番頼れる存在なんじゃないのか? その俺たちが、大丈夫だ、安心しろなんて浩太郎に嘘を吐いてみろ。浩太郎は死の恐怖と一人で戦わなきゃいけなくなるんじゃないか。君はそう考えないのか?
俺たちも浩太郎と一緒に戦ってやらなきゃ。三人で受け止めなきゃ。そのためには俺たちの口から浩太郎に本当のことを伝えるしかないと、俺は思うけどね」
雅恵は浩介のこの考えに反論する言葉を持たなかった。無言の了解であった。
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