第三話「復活優勝」

 場所は進み十四日目を迎えていた。

 狛ヶ峰こまがみねはこの日まで無傷の十三連勝。西の正横綱江戸錦えどにしきはようやく八勝目、優勝争いからは早々に脱落している。大関霧乃山きりのやまがただひとり二敗をキープし、狛ヶ峰と結び前の取組である。狛ヶ峰勝てば千秋楽を待たずに優勝が決定する一番であり、霧乃山にしてみれば今日狛ヶ峰を一敗に引きずり下ろして明日に望みを繋ぎたいところ。

 ただ、大方の予想では今日の直接対決は兎も角、明日の結びに予定されている横綱同士の決戦で江戸錦が狛ヶ峰を下す目はほとんどないと考えなければならなかった。

 なぜならば両者はこれまで四十五回対戦して狛ヶ峰の四十勝五敗。横綱同士の対戦成績とは思えぬ圧倒的ワンサイドゲームだったからだ。

 両者とも右の相四つながら、江戸錦は懐の深さで狛ヶ峰に及ばず、ほぼ毎場所、何の工夫もなく誘われるように右四つに組みあっては寄り切られるというのが判で押したような江戸錦の相撲であった。さすが横綱に昇っただけあって、がっぷり四つに組み合ってからの引き付け合い、土俵際の粘りは他にないものではあったが、ただそれだけの話だ。対狛ヶ峰戦での無策っぷりは、狛ヶ峰の取り口に対するそれとはまた別の意味で、横審が苦言を呈するものであった。

 こんなだから霧乃山応援団も、千秋楽に江戸錦が狛ヶ峰を下すなどという甘い幻想を抱いておらず、そうである以上は今日の直接対決で霧乃山に狛ヶ峰を粉砕してもらい、せめても溜飲を下げたいと考えるのは当然の成り行きなのであった。

 さてその結び前。

 淡々と仕切りを繰り返す両者であるが、時間が迫るにつれて狛ヶ峰の肌は紅潮、青房下あおぶさしたまで小走りに塩を取りに行くのは、時間いっぱいの声が掛かったときに見せる狛ヶ峰おなじみの所作であった。

 一方の霧乃山。塩を手に客席側の中空の一点を見詰め、気持ちを抑えるかのように淡々と向き直り塩をく。

 逸る狛ヶ峰と落ち着き払った霧乃山。どちらが横綱だか分からない。

 先に両手をついて万全なのは霧乃山である。狛ヶ峰はといえば右の拳を置きながら左の指先で砂を払うような仕草を見せる。ナーバスになっているときに見せる狛ヶ峰の癖である。

 何度かそのような仕草を見せた狛ヶ峰。左の指先は明らかに付いていなかったが突っかけた。

「まだまだまだッ!」

 止めに入る行司。

 場内が溜息に包まれる。

 二度目の立ち合い。霧乃山はやはり両の拳を付けて準備万端である。

 今度も突っかけたのは狛ヶ峰であった。心理戦を仕掛けても動じる様子のない霧乃山相手に、狛ヶ峰苛立ちを隠せない。

 三度目の立ち合いで遂に成立。狛ヶ峰は必殺の張り手もカチ上げも、霧乃山相手には繰り出さない。この大関にはそんな小手先の技が通用しないことを熟知しているのだ。狛ヶ峰が選んだのは得意の右差しではなく左差しであった。これは左からの絞りを得意とする霧乃山に対しては奇襲といえる策であった。もし漫然と右を差しに行けば、霧乃山の左からの強烈な絞りに差し手を殺され、なすすべ無く叩き出されることは明らかであった。事実ここ数場所は霧乃山が左からおっつけ、右喉輪で狛ヶ峰を土俵下まで吹っ飛ばしており、狛ヶ峰対策を確立したともいえる霧乃山が依然大関でうろちょろしているのが不思議なくらいであったが、それは余談である。

 兎も角もこうなれば差し出争いだ。左を差したい狛ヶ峰に対して右をこじ入れたい霧乃山。こうなってしまえば、右でも左でも相撲になる狛ヶ峰に一日の長があると思われた刹那。霧乃山が不十分ながら左のはず押しで猛然と前に出る。狛ヶ峰は左差し成ったが浅く、霧乃山の浅い右上手に起こされている。半身を強いられた狛ヶ峰はそのまま割り出され、霧乃山が劣勢を挽回して狛ヶ峰を一敗に引き摺りおろしたのであった。

 興奮のるつぼに包まれる愛知県体育館。

 明日千秋楽、江戸錦が狛ヶ峰を破る僥倖を信じてなどいなかったファンも、このときばかりは明日の優勝決定戦に霧乃山優勝という淡い夢を見た。


 さてその千秋楽。

 霧乃山は結び前で鶴の里との大関対決を制し十三勝目。優勝に望みを繋ぐ。


「ひがーいしー、こまぁーがーみぃーねぇ、こまぁーがーみぃーねぇー」

「にぃーしー、えどにーしぃーきー、えどにーしぃーきー」


 呼び上げとともに土俵に上がる両横綱。

「番数も、取り進みましたるところ、かたや、狛ヶ峰、狛ヶ峰。

 こなた、江戸錦、江戸錦。

 この相撲一番にて、千秋楽にござります」

 行事が今場所最後の一番を告げて一礼すると、喚声が客席から沸き上がった。

 会場のあちこちから

「江戸錦ー! 頑張れー!」

 或いは

「狛! 負けてやれ!」

 という野次が飛び交う。

 江戸錦を贔屓するがゆえの声援ではない。狛ヶ峰が二敗に後退することを期待しての野次である。

 狛ヶ峰にとってはさながらアウェーの様相を呈する愛知県体育館。だがこの横綱は、このような局面でこそ無類の強さを発揮する。その白面がみるみる紅潮して、溢れ出す闘志を隠そうともしない。

 時間が告げられ小走りに塩を取る狛ヶ峰。待ったなしである。

「はっけよい!」

 突っかけたり突っかけられることなくすんなりと立ち合いが成立。江戸錦の勝利を願う(というよりは、霧乃山の優勝決定戦進出を願う)ファンの大喚声とは裏腹に、立ち合いからあっさり右四つがっぷりである。横審が苦言を呈する江戸錦の無策はここ一番でも遺憾なく発揮された。

 お互いに得意の四つで引き付け合う力相撲だが、喜んで観戦するのは素人ばかりで、目の肥えたファンはのっけから無為無策に等しい右四つの展開に溜息を吐くばかり。

 一分を超えたあたりで狛ヶ峰が引き付けつつじりじりと前に出ると、江戸錦俵に詰まって堪えるが、最後は力尽き寄り切られて狛ヶ峰の勝ち。

 十四勝一敗の好成績で五十七回目の幕内最高優勝をもぎ取ったのである。

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