第10話獣の手当て



マトーの溜息が月夜に何度か落ちた

ゆっくりと月が形を変える


この世で移ろわぬものなどない

ましてや気まぐれな月ともなれば



「いってらっしゃいませ」

「ああ」


緋のマントが黄金の扉に翻る

リマの繕った衣をまとって。

マトーが略奪へと発つ

恐ろしいことを成すのに、剣を番えた姿は美しい。美貌に気圧される。


今日も身体中が破れるのかしら。


酷い刃を幾筋も受けて


いつも見るたびにギョッとする。


もちろんマトーはわざと衣を切り裂いているのだ

怪我するようなヘマはしない

スレスレのところで切っ先を避ける


リマに繕ってほしいから


全身ボロボロで帰るのでリマは一日中針仕事だ

退屈しない。針をチクチク通しながら考える


どう? 少しは人間らしいかしら。家畜は餌を食べるだけだもの。

奴隷にだって色々階級があるわ…。


思い巡ら潜らせた糸

マトーが、何度もその縫い目に口付けし、スライに見せびらかしているなど思いもよらぬ



どうかな、少しは、打ち解けてきたと思うんだが

マトーは思案する

最近はおずおず扉までお見送りしてもらえる


ご武運を、なんて、祈りをくれる!


俺の身を案じて!


胸が輝いてやる気が満ち溢れる!

俺はやるぞー!

殺る気に満ちて街を襲う


この大陸の戦況などどうでもいい

部下を食わせてやらねばならぬ。

ただ己の利益と悦を追求する


右の国との契約に基づいて、淡々と左の国の街を燃やす

骨肉の焦げる匂いが肺に満ちて、やっと生きていると安心できる


最も落ち着く匂い

肉食獣は他の獣の死を糧にしか生きられない


だがリマの前では話はまったく別


「ただいま」

「おかえりなさいませ……っ」


扉の音でいつもビクッと体を震わせる。器用に編み込んでふたふさに垂らした髪が揺れる


可愛い。


繕い物を放って、駆けつけてくれる。


ふわっと花の香りが弾ける


いい匂い!


硝煙の香りなど吹き飛んでしまう


かしゃん


血まみれの剣を床に放る


触れたい触れたい触れたい舐めたい触れたい抱きたい食べたい


湧き上がる衝動そのままに強く抱きしめたい。


だが、そんなことをすれば…。ここまで懐いた娘は脱兎で逃げ出すだろう


怯えた瞳は2度とごめん


たえろ、たえろ俺…!


折れんばかりに歯を食いしばる

獣は、愛しいうさぎに怯えられないよう必死


ひたすら春の嵐のような衝動に耐える


リマ、リマの全ては俺のもの


なのに、


俺は髪一筋だって触れられない


くらくらと脳を痺れさす香をひたすら嗅いで酔う


痛感する

恋とはこんなにもどかしいものなのか


一方

リマは主人に尽くすことを一身に考える。

そうすれば、少しでも生きながらえられると信じて

恐ろしい血と鉄の匂いにも、柔軟に麻痺して。


***



リマの財産は幾分増えた


小さな国なら買えるほどに


金の百合と薔薇の蔦が絡むドレッサーに、もつれ合った宝飾品の山。とりどりの宝石。輝きすぎて何色かもわからない


「どれにしようかなんて迷わなくて良い。これもあれも全部お前のもの。あっこれも似合う、似合いすぎて困る」


マトーは貢ぎ体質だった!


怒涛のプレゼント攻めがリマを襲う


耳たぶに揺れる紫のクリスタルが物凄く重い。


マトーがリマの髪に花をあしらう。ダイヤのびっしり埋まった百合


「輝く百合、黒い髪によく似合うな 」


可憐な指先に花の指輪が灯る。口付けの代わりにダイヤが煌めく。


鏡越しにマトーが寄り添って、大粒のスターサファイアを首にかける。


うなじの産毛が総毛立つ


気取られないように僅かに竦む



どうしてこんなにものを下さるのかしら?

私は家畜以下の奴隷なのに


そうはっきり言われた


残酷な遊びの一環かしら?

締める前に家畜を肥え太らせるように


そっと鏡ごしに微笑むマトー様は

そう思えないほど、優しくてなんだかぎこちない…


***


いつの間にか頬の冷える夜はなくなって

あたたかな風が花びらを舞いあげるようになった


下弦の月が浮かぶ


「マトー様、お帰りなさいま……」

主人を迎えようとして、リマが言葉を失う

視覚よりも嗅覚が先に異変を感じ取る


その日帰った主人からは、酷い血の匂いがした


いつもは滑らかな肌が覗く裂け目が、鮮血に染まっている


最近は返り血すら浴びずに帰るのに


ズックリ肩口をえぐる深い傷


カラン


乱暴に刺さった短刀が引き抜かれる


「マトー様……っ!」


震えながらも健気にリマが駆け寄ろうとして


「ほっておいてくれないか」


冷たい声に凍りついた


恐ろしい獣の唸り声

胡乱げに一瞥すると逸らす


マトーの虚ろな瞳には愛しい娘が映らない

どっとソファに沈んで紅と溶ける

俯いて苦悶に歪む


油断した

身体の傷など痛くもなんともない


呪いの言葉が頭にガンガンこびりついて取れない


弱い新婚の兵士だった。妻をかばって、獲物にもならない。

仕事だと割り切ろうとして


――おとうしゃんを、いじめるな!


隠れていた子供にやられるなんて!


ネズミに噛まれた猫だってこうまで凹みはしない


怯んで逃した。

いや、見逃したのか…。

ああまで、お互いを庇いあった思いやりを、様々見せつけられては…!


張り付いた呪いの言葉


――あなたは決して人を愛せない。そして愛されない! 一人で死んでいく!


苦し紛れだ!

違う!一瞬で見抜かれたんだ!


そうさ、その通り、俺は孤独な人間だ。あんたらは簡単に愛を手に入れても、俺には決して手に入らない!


首筋に宝石を通すだけでも竦まれる


怯えられて、竦まれて、指先一つ触れられない。


どんなに手を伸ばしても輝く星には手が届かない…


「マトー様…」


甘やかな香に瞳をあげる


「!」


一面の星に落ちたかとおもった。


紫に燃えるリマの瞳の星

息もかかるほど近くにリマが見つめている


ここがどこで自分が誰かも一瞬判らなくなる


己のもたらす美が獣の喉を絞めるなどと露知らず、少女がさらに屈む


見開ききったマトーのまつげに、衣擦れの音が落ちる


「お怪我を…酷いお怪我です…! て、手当てをしないと……!」


怯えきって、震えながら、懸命に手を伸ばして、とにかく必死で


その手には薬の浸った清潔な布


触れる


「……っ!!!!」


冷たい熱。


そして心に甘く鋭い痛み

駆け巡って毛細血管まで染み渡る


「も、申し訳ありません……! でも…」


溢れる寸前の涙をキラキラ溜めて、リマがおそるおそるマトーを伺う

それがどれだけ獣の食欲をそそるか気にも止めずに


パンっと、頭の中で音が響いて、理性が決壊する

「リマ……っ!」

堪らなくなってマトーはリマを引き寄せた!

血と花の匂いが混ざる

「……っ」

もつれた花が胸中へと落ちる

「何も!」

抱きとめたかと思われた腕は、瞬間緩められた


リマを血で汚したくない


懇願が勝手に漏れる

「何もしない……! 何も怖いことはしないから……! 今だけ、こうさせてくれないか……? お願いだ。ほんの少し、息を止めて耐えてくれ……。今だけは……」


愛しい花の滴が零れぬように必死で囁く


遠目には硬く抱き合っているように映るだろう。ゆるく流れて押し合う衣擦れ


けれど、指先一つ触れていない!


彫刻の様に固まって目を閉じる。血と、薬液と、真っ白な花の香り


そして熱


リマの熱の何とありがたいことか


白いうなじが微かに息づいて匂い立つ


ああ、なんと近いんだろう!

吐息の洩れる音

息を止めていないんだな……


リマ、リマリマリマリマリマリマ……!


何も考えられない


竦んでいるのか身を寄せてくれるのか、もう、わからない……


愛している


世界でたった一つだけ確かなもの




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