第11話狼は月夜に口付ける
「適当でいい。気遣わずに思いっきりやれ、麻酔も消毒もいらん。俺は破傷風にはならん」
リマは仕立て屋の娘だ。繕い物は得意。だが人間の皮膚を縫うのは初めてだ
皮用のカーブ針をおそるおそる突き刺す
ブツブツ針が刺さるたびに、マトーは嬉しくてたまらない
リマの優しさが染み込むよう
女に傷口を見せる男の気が知れなかったが、こんなにも愛しい気持ちになるのか
心の中に太陽が生まれてぽかぽか照らされるよう
パチンと糸を切って終わり
(まあ! また伝説が当たっているわ!)
マトーの尋常ならざる治癒力にリマは目を見張る
血のりを拭えばもう傷口は癒えて、新しい皮膚の幕が張っている
***
マトーはリマを侍らせて大広間で食事するようになった
城中の人間がいつでも集う。寂しがりアスクレーの大好きな場所。
剛腕の兵士からメイドまでジョッキで乾杯。
「マトー様は飢えも寒さも許さない! 飲め食え歌え吐くまでくえくえ!」
空腹など許さぬとばかりに御馳走が並ぶ。
今日の一押しはスペアリブロースト、七つの隠し味のオーロラソース添え。リマは3つまで当てられた
「食え。もっと食え。」
「は、はい」
マトーは食い物を進めること以外に好意の示し方がわからない
リマの皿へ甲斐甲斐しく肉を切り分ける
あのマトー様が、奴隷の為に一生懸命飯を取り分けている!
なんじゃこの光景は!?
城の誰もが目を疑った
灯りが煌々と広間を照らす。カンテラに混じって、ひと際輝く光の球
「この城は夜でも真昼の様に明るいのですね」
「衛星から太陽光発電したエネルギーを傍受しているからな。だがまだ城の下層はカンテラが欠かせない…メグロマ炭鉱が手に入れば、もう少しマシになるのだが…」
エイセイ? ハツデン? 呪文の様な返答。さっぱりわからない。たった一つ拾った単語が恐ろしい想像と結びつく
メグロマ炭鉱!?
左の国の心臓部だわ。
あんな大きな炭鉱を狙っているなんて! きっと凄まじい戦いになるわ。この人の手はまた血に染まるのかしら、たくさん人を殺すのだわ。恐ろしい人! おけがをしないで欲しい…。
恐れと心配がないまぜの、複雑な思いが沸き上がる
「さあ! 飲めや歌えや歌が足りない!!!」
城の人間たちは音楽も大好きだった。誰もが何かしらの楽器を嗜んで居て、何かと理由をつけてはかきならす。アスクレーは蛇の絡む竪琴。スライは馬頭のフルート
マトーが歌うが音痴なのですべての美しい旋律の調和をぶち壊す
「さあさお立会い! このアスクレーの調べが夜を銀に染めるよ!」
アスクレーが、じゃんっと竪琴を一かきする
竪琴引きになるために生まれたような長い指
「今宵語りますは神の調べ。人間に恋して散った太古の神のお話し。」
リマの瞳がキラッと輝きを増したのは、カンテラの灯りのせいだけではない。
マトーの心がちりっと痛む
「むかーしむかし、我らが迷える羊となり果てる前。我らの御許にはバールの神がおられました。全知全能にして慈悲ぶかき神。我らは神の素晴らしき園で、何不自由なく暮らしていたのです。神の撒く種を食して」
哀しい調べがぽろぽろと零れる。うまい。皆呆けて聞き入っている
「我らと神は永遠を共にするはずでした。ある日、神が我らの一人を見初められるまでは。ああ! その女の何と愚かだったことでしょう! 神の妻になることを拒むなんて! 死ぬほど嫌がった! 本当に自ら死を選んだのです!」
ああっ! とアスクレーが額を打つ。
「愛しい女に拒まれた神は……嘆き悲しんで、遂には死んでしまいました。こうして我らは神の加護を失い、知恵を失い、冬には飢え、醜い争いを繰り広げるようになったのです。けれど我らは信じています。いつか神の蘇らんことを! そしてその時には、二度と過ちを犯さぬように。ですからバールの民は、絶対に自ら死を選んではいけません。どんな時でも生きる道を探さねばいけません。岩にむした苔を食べてでも。」
リマはもう感動してしまって聞きほれている。その可憐な瞳には可愛い粒。
(そうよ、どんなときでも生き延びなくてはいけないわ! 奴隷に身を落としたって!)
一方もうマトーは気が気ではない。じれじれじれて大変だ。
(アスクレー! ロマンチックな歌で女を虜にするなんて卑怯だぞ! アスクレーのくせに!)
「ええい、貸せ! 俺も音楽をやる!」
髭男のギターをひったくる。じゃらん
「無理だよ、弦なんて触ったことないじゃないか。」
「原理はわかる。出したい音に弦の固有振動数を調節すればいいんだろう。」
節くれだった指が弦をつま弾く。たちまち明るい音色が溢れ出る。うまい、いや、うまいなんてもんじゃない。凄まじい超絶技巧。速弾き過ぎて指が見えない
「ははは、どうだ!」
「……物理学的アプローチからFコードをマスターする男を初めて見たよ」
その気になれば瞬時にエキスパートを凌駕してしまうマトーである。好きな女の子の為にという不純な動機であっても。
「リマちゃん、踊りましょっ!」
マアリがキュッと抱きついてからリマの手を引き上げる
もう、卓の上で飛び跳ね出した群衆の中へ
ウングカンテレ、マリンバ、フィドル、アコーディオン
橙のカンテラにジグが乱れ咲く
な、なんだか楽しい!?
きゃっきゃとマアリが歓声を上げて飛び跳ねている
地獄の底のように思い描いていたマトーの城で、思わずこぼれた歓声にリマが一番驚く
***
踊り疲れて眠ってしまったリマを抱いてベッドに横たえる
細い月の光がリマの鎖骨を薄く照らす
マトーの優れた目には充分刺激たっぷりだ
髪を一束手繰って鼻に押し当てる
今日一日欲しくてたまらなかった香が鼻孔を満たす
顎を殴られたかのようにくらくらする
「リマ……」
淡く上下する胸が、たまらなく愛おしい。
そんなに無防備に俺の前で寝息を立てて……
小さな手のひらを取って甲に唇を落とす
ちゅっと音を立てて軽く吸う
美貌のおもてからは想像もつかぬ劣情が駆け巡る
唇は甲から頬へ……
キス、キス、キス……
ここぞとばかりに欲望を満たす
満たしても満たしても湧いてくる渇望
「んぅ……」
リマの唇から吐息が漏れる
まさに、マトーが味わおうとした寸前で
「!」
獣は我に返ってばっと身を離す。
「んー……」
寝返りを打つとまたすやすや安らかな寝息を立てるリマ
あ、危なかった……。ほっと胸をなでおろす。
ぎぎぎっと自分と闘って何とか身を離す。果てしない葛藤を経て遠ざかる
そして自身はソファに体を縮こまらせて眠る
「ストレイシープが一匹、ストレイシープが二匹、がるる……」
ありったけ理性を総動員しながら血走った目で羊を数える
目を細めた月だけが一部始終を盗み見ていた
新月までには、すっかり肩の傷も癒えてしまうだろう
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