第5話

 落ちた青春────


 今年でもう十九になる。同級生だったみんなは大学へと進学して、楽しい青春時代を送っているのだろう。しかし、ウチは予備校通い。青春とは程遠く、その大地から押し落とされたみたいだ。言うなれば、私は落ちた青春を歩んでいる。崖の底でい上がれずに空を眺めているだけの存在だった。

 制服を着る。そこには、高校生の色合いは消えていた。

 高校生と大学生の間。誰もが蔑んで見下す中間の存在。その中央を歩いていく。誰の目も気にしない。気にしたら負けだ。

 一人で建物の中へと入っていった。

 最初の授業が始まる。

 「数学I」の授業。椅子に座りながら目を瞑る。いつだってそうだ。最初は緊張する。息を吐き、指を鳴らす。そうして緊張を解いていった。



 ここには相談所が設けられていた。

 希望する大学には行けるのか、自分のレベルと授業のレベルがあっているのか、様々な相談を受ける場所。時には人生相談を受けることも、ある、かも知れない。

 相談員は主に文系担当のもとニーナと理系担当の和谷学だった。彼らは相談員をやる分、授業の負担は少なかった。

 私が教室の椅子に座っている中、相談室では、学と同じく数学の担当をする阿部あべ美涼みすずと喋っていた。

 もうすぐ授業の時間。

 美涼は席を離れようとしていた。


美涼「それでは授業行ってきますっ!」


 悪い顔を浮かべて彼女を見ている。


学「もしかしたら、入った瞬間に悪戯いたずらでもされるんじゃないか。例えば、扉を開いたら黒板消しが落ちてくるなんて、な」

美涼「いや、そんなこと……」


 そう言って、話に区切りがついた。

 彼女は教室に向かうその中で頭を働かせていた。学の話が繰り返される。「扉を開いたら黒板消しが落ちてくるなんて、な」もしかしたら、本当に落ちてくるかも知れない。

 扉は少し空いている。上には黒板消しはないが。

 そこで頭の電球がついたようだ。

 扉を開くと、ほうきにぶつかり、その箒に繋がった糸が装置を動かして黒板消しを落とす。きっとそうに違いない。


美涼(開いたら少し様子見しようか。だけど、もし黒板消しが落ちてこなかったら、扉を開いて立ち止まってた美涼を変な目で見てくる可能性がある。それだけは避けたい)


 頭を回転させていく。


美涼(そうだ。開いたらさっと入って、さりげなく教壇に行こう。そうすれば黒板消しを避けられて、もし落ちてこなくても変な目では見られない)


 いくさ場だ。

 彼女は扉に手をかけた。呼吸を整えてから、扉を開いて思いっきり前へと右足を前に出した。

 その時、左足がレールの突起に引っかかってしまった。

 そのまま派手に転げ落ちる。

 思わぬ歓声が湧き上がる。顔は冷たい地面に触れているのにとても暑い。赤い顔で床が温まりそうだ。

 さりげなく教壇に戻る。転けたことはなかったことにして。

 ただ、のどは転けたことを引きつっていた。


美涼「え、ええ。えーっと、こんにちは。す、数学Iを始めていきますね。今日は授業の進め方について説明していきます。早速ですがプリント配りま……」


 その時、彼女は手元を見た。授業の用具を持っていない。学と話していた時には持っていた。そして、ここに来る時には。

 「あーっ」と声を荒らげる。

 呆れた表情で見ている生徒達のことなど瞳には映っていなかったようだ。


美涼「プリントと授業の用具を忘れたっ! みんな、ちょっと待っててね」


 慌てて教師用の教室に向かい教材を取って教室へと戻った。

 荒らげた息を抑えながら話していく。


美涼「さ、さあ。授業を始めてましょうか」



 初めての授業。最初は緊張はしたものの、担当教員のドジっぷりを見たらその緊張が吹き飛んでいた。授業の説明が終わり、休憩時間となっていた。

 担当教員の美涼が帰ろうとした時、再び転げ落ちる。教材用具が地面に転がっていった。

 たまたま前にいた私と横の男子の二人でその教材を拾い集めて彼女に返した。

 その男子が気軽に接しようとしていた。穏やかでにこやかな人懐っこそうな様相が、警戒心を容易たやすく解いていく。


進「先生はどうして、入る時、不思議な入り方で入ってきたんですか?」


 転んだことだろうか? いや、それならそんな質問にはならない。


美涼「和谷先生が扉開けたら黒板消しが落ちるかもって、言ってたから警戒して……」


 彼は純真無垢に「なるほどぉ」と納得する。ただ、その純粋さがアダとなり失礼な言葉を浴びせる。


進「もしかして、先生って"天然"ですか?」


 ストレートに言い切った。

 ウチは恐る恐る先生の表情を眺めた。

 ケロッとした雰囲気だ。だけど、大人は信用できない。そういう雰囲気をしながら裏では深く傷ついているかも知れない。


美涼「そうだよー」


 え、えええ。

 心の中で「え」を連発する。普通、自分のことを天然なんて言わないよ。想像してなかった答えに驚かざるを得ない。


美涼「当たり前でしょ。人なんだから。人は生まれながらにして"天然"でしょ?」


 思わぬ迷言が飛び出た。

 この問答から彼女が本物の天然であることが分かってしまった。


進「多分、その理論は間違いだと思いますよ。少なくとも僕は天然じゃありませんし」


 彼女の頭の中で過ぎる魚の絵。海で泳ぐ魚の数々。それらは全て天然魚だ。今天然じゃないと言い切った男子を見て、小さな稚魚が過ぎっていく。天然の対義語は……


美涼「えっ、嘘でしょ。天然じゃないってこと。つまり、"養殖"ってこと?」


 迫真の表情で見つめている。

 その姿がシュールで思わず口から吹き出してしまった。

 美涼は彼の肩に手を乗せていた。


美涼「ということは。人造人間とかクローンってことでしょ。やばいじゃん。大丈夫。このことは内緒にする。もし困ったことがあったら、いつでも美涼を頼って」


 点が繰り返される。

 何を言っているのか全く理解できない。


進「今がとっても困ってます……」


 困り果てている。彼も理解できていないのだろう。

 一人だけ納得したように教室を離れる美涼を見ながら、頭と体が動かなかった。時間が止まった、気がした。

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