第30話 春の嵐 ~ 2 ~


議会場は人々が口々に囁きもらす話し声で、がやがやと喧しいほどだった。

中央の楕円形の円卓に重要な役職につく貴族たちが座り、

それより少し後ろの円卓を囲む階段状の席にその他の貴族議員が座っている。


通常の議会とは違い、席につく貴族の数は少ないが、皆一様に

今回の招集の異常さと引き出される者に対する興味で興奮を隠せないでいた。


円卓を見下ろす高座には議長と書記がいて、その後ろの重々しいカーテンが

三方に下げられ、正面だけが巻き上げられたボックス席には

国王とアスタリオン王子がいる。



眉間に皺を刻み、アスターは前を見据えていた。

貴族たちはちらちらと伺うようにアスターを盗み見て、

こそこそと言葉を交わしている。


ロンドミルの人間を侍従にしていたとは!

しかも捕虜だったらしい。

王子自らが連れてきたと聞いたが、一体どういうつもりだったのか?


囁かれている言葉はきっとそんなものだろうと彼は思った。

興味と困惑がないまぜになった視線、だが、自分に向けられる

批判などはどうでもよかった、

ただアスターの心を占めているのは、エミリオのことだけ。


どういう批判に晒されるだろう、そんな目には遭わせたくはないのに!

議場の大時計の鐘が鳴り始め、ぴくりとアスターの肩が動いたのを見て、

国王が後ろからそっと彼に声をかけた。



   

   「アスタリオン、お前が王太子としての役目をよく果たしていることは

    皆わかっている。 だが、これは別だ。

    我々王族は、普通に人が持つ幸せを求めてはならぬ時がある。

    理不尽と思うだろうが、耐えなさい」

   「はい」




くっとアスターは歯を噛み締める。


議長による議会開催の宣言が議場に響き渡り、そして、

エミリオが呼び出された。




白いシャツにズボン。

捕らえられた時のままの服装で、手首には鎖のついた鉄輪を嵌め現れた

エミリオは、倒れるのではないかと思うほど顔色が悪く、憔悴しきっていた。


おもわず腰を浮かしかけ、アスターははっと我に帰り、座りなおしたが、

食いいるような眼差しでエミリオを見つめた。


今すぐにあそこに行き、鉄輪を外してやりたい。

好奇の目から隠し、ここから連れ出し安心させてやりたい。


だがどうすることもできないまま、裁判は進んでいく。

強姦については深い追求がされないまま終わり、論点はすぐにエミリオの

出自と王太子付き侍従として働いていたことに移っていった。



   

   「どうして捕虜の身でありながら、王太子侍従として働いていたのか、

    それは、スパイ行為のためか?」

   「いいえ、そのようなことはありません」

   「国に帰ることは望まなかったのか」

   「はい」




ざわざわと議場が騒がしくなる。

やはり、なにかしら探っていたのではと疑いの声があがる。



   

   「疑われてもおかしくない状況だと思うが、どうか」

   「やましいことは何一つしていません。

    ですが、疑いをかけられてもおかしくないと思います」

   「偽りを行った罪を認めるか」

   「はい、これは私だけが負う罪です」

   「違う!」




思わず立ち上がりアスターは叫んだ。

父王の忠告が頭をよぎったが、黙っていることはできない。



   

   「なにもかも承知で彼を侍従にしたのは私だ。その者に罪はない」

   「いいえ、王子は嘘を言っています。私が望んだことです」

   「……っ」




エミリオの言葉にアスターはぐっと拳を握った。


ー ー 罪を一人で被ろうというのか、エミリオ、こちらを見ろ。



   

   

「私の言うことの方が真実だ、そのための証人もいる」




議長ではなく目を伏せこちらを見ようともしないエミリオに向かい、

アスターは低い声で告げ、すぐにイアソンと侍従長が入室した。


そして彼らそれぞれが、今までの経緯を詳しく述べる。



   

   「彼がとった行動で罪のない人達、この国に救いを求めてきた

    人達の命を救うことができました。

    アスタリオン殿下は、砦の警備隊員が犯してきた罪を

    償う意味もこめて、王城での彼の静養を決められたのです」

   

   「彼が優秀な人材であることは、長く侍従として王族に仕えた

    私にはすぐわかりました。

    それに王太子妃を選ぶという慎重を期す時期に入っていたことも、

    誰の後ろ盾もない彼を侍従とした理由の一つです」





二人の明確で説得力のある言葉にざわついていた議場には落ち着きが戻り、

アスターは肩にいれていた力をほっと緩めた。



   

   「しかし、このまま王太子付き侍従としておくことは

    できないでしょうな」




不機嫌さをにじませたロービス宰相の声が響きわたり、そうだ、そうだと

賛成の声があがる。



   

   「いくらスパイ行為がなかったとは言え、殿下のそば近くに

    仕えていた者をリバルドに返すことはできかねる。

    特に最近、殿下は政務についても、この者に意見を求めてみえた

    ようですし、そうやって徐々に王子の信頼を得ることが、

    この者の本当の狙いだったのかもしれませんぞ。

    なにしろ女のような無垢な顔をして、密かに欲望を満たそうとする

    人間なのですから」




にわかに議場がまた騒がしくなり、なるほどと頷く者や、侮蔑を込めた視線を送りひそひそと言葉を交わす者、怒りをあらわにエミリオに暴言を投げつける者

さえ現れた。

酷い言葉にエミリオはさっと顔を赤らめたが、表情をかえず微動だにもせず、

静かに立ち続けていた、だが、反対にアスターは怒りに我を忘れそうだった。


全くの濡れ衣だ。

彼が性のない身体だとこの場で言えば身の潔白は証明できるが、

好奇の目に晒されるばかりか、その身で仕えていたことが、

またいらぬ憶測を呼ぶだろう。



   

   「監視つきで難民収容所に送るというのはどうですかな。

    もちろん、牢送りも考えてみるべきですが、いかがでしょう? 

    アスタリオン殿下」




宰相の言葉にしんとあたりは水を打ったように静まり、

だれもがアスターを見た。

国王と王太子に向かい合う円卓の中央に座るロービスは、

にやりと頬を歪めて笑いながら、アスターを見つめている。


歯を噛み締め、怒鳴りつけたいのを堪え、身近に取り戻すことは

できないにしても、どうにかロンドミルへ送り返してやれないかと考える。


だが、どう言えば皆が納得するのか……。



その時だった。

ぎいぃーと重々しい音をたて精緻な彫りのある大きな議場の扉が開き、

取り乱した様子で議会担当の官吏が走り込んできたが、カツンと靴音がして、

その後に一人の貴婦人が現れた。


官吏が書状を手渡し議長に耳打ちする間、その場の誰もが怪訝な顔で

その貴婦人を見つめていたが、彼女は少しも臆することなく

落ち着き払った様子で、議長が書状に目を通すのを待っている。



   

   「あー、こほん、今日の議会にはアンヌ公爵のかわりに、

    クリティールド=アンヌ公爵夫人が出席です。 

    あー、公爵夫人、円卓のあちらの席にどうぞ」

   「出席をお認めくださりありがとうございます、議長閣下、 

    着席は結構ですわ、なぜなら私は、あの者を引き取りに来たからです」




そう言って夫人がエミリオを指差したため、場内はまた一段と騒がしくなって、議長はカンカンと木槌を打ち鳴らし、静粛に!と大声をだした。


しばらくの時間を要して騒ぎは徐々に収まり、渋面の議長が夫人に問う。



   

   「それは一体どういうことですかな」

   「あの者が、公爵家につながる者だからです」




先ほどの騒ぎどころではなく、議場内はうっかり突ついた蜂の巣のように騒然となり、誰もが驚きに目をむき、興奮して喋りあった。

アスターもただ呆然と、クリティールド公爵夫人とエミリオを

交互に見るばかりだ。


ただ一人、夫人だけが落ち着きはらっていて、騒ぎをものともせず

凛とした声で話し始めた。




    「先代のアンヌ公爵の末弟が、北方山脈で行方不明になり

     遂に帰ってこなかった事は、皆さんなら聞き及んで

     みえますでしょう。

     そこにいるエミリオ=デュッソは、彼の孫にあたる者。

     先代の末弟が、記憶を失いロンドミルで暮らしていたことが

     わかったのはごく最近です。

     ですからエミリオはロンドミルで育ちましたが、彼の優秀さや

     上品な物腰が、高貴なアンヌ公爵家の血を引く何よりの証。

     いつかは呼び寄せようと思っていたところ、

     殿下の侍従となり、これも運命と陰から見守っておりました。

     ですがこのような事になり、恥を覚悟でここに参った次第です」




そう言って公爵夫人が議場のだれもに向かって、敬意を表す最高の礼を、

ゆっくりと優雅に行うと、あたりはしーんと静まりかえり、厳粛で静謐な

空気がその場を覆った。

そして頭を上げた夫人は真剣な表情で周りを見回し、さらに言葉を続けた。




   「ですが私には、どうしてもこの者が、恥ずべき行為に及んだとは

    思えないのです。

    身内の依怙贔屓えこひいきと思われるでしょうが、ここに証人を呼び、

    今一度この件を皆さんで考えていただきたいのです。

    事件発見者の庭師と、最初に取り調べを行った衛兵長ををここへ」




大扉ではなく隣の部屋に続くドアが開き、作業着の男と衛兵の制服を着た男が

二人、入ってきた。



   

   「衛兵長、あなたが取り調べたエミリオ=デュッソは、

    何かを嗅がされて意識を失い、目覚めた時にはもう、

    暴行を受けた女官が側にいたと言ったのですね」

   「はい」

   

   「庭師のあなたは叫び声を聞いて小屋に入り、

    エミリオ=デュッソを拘束した。

    その時、彼の衣服からこのような匂いがしませんでしたか」




そう言って夫人は懐から小瓶を取り出すと、広げたハンカチーフに

数滴垂らし、庭師の顔に近づけた。



   「そうです、この匂いがしました」

   「これは、南方の猛獣使いが用いる麻酔薬ですが、成分が強いため、

    匂いが衣類に染み込みやすいのです。

    これをリバルドで手に入れることは難しく、簡単に侍従が

    手に入れられるものではありません。

   「ロンドミルでは入手可能かもしれませんぞ。 

    おそらく、隠し持っているうちに匂いがついた、

    女が暴れたら使うつもりだったのだ。」




イライラとした様子で宰相が口をはさんだ。


先ほどまでとはうって変わり、彼は不機嫌そうに顔を歪め、

クリティールド夫人を睨みつづけている。



   

   「なるほど、彼がこれを懐に忍ばせて女官に近づいたのなら、

    とうぜん彼女もこの匂いを嗅いだはず、

    では、直接聞いてみましょう」




先ほどのドアがまた開き、若い娘がおどおどした様子で入ってきて、

貴族たちは一様に好奇の眼差しを彼女に向けたが、たった一人宰相だけは、

信じられないといった表情で彼女を見ている。


さっと足を運び夫人はその娘に近づき、チーフを彼女の鼻に近づけた。



  

     「この匂いを嗅いだことがあるかしら?」




彼女は困惑した様子で、顔を顰めてありませんと答えたが、

その返事に被せるように宰相ロービスの怒号が飛んだ。 



   

   「匂いひとつで真実を覆せるわけがない!」

   「確かにそうですわ、では次の質問に移りましょう」




公爵夫人はちらりと宰相の方を見たが、すぐに向き直り、

落ち着いた口調で彼女に話しかける。



   

   「あなたは事件のたった二日前に女官として雇われたそうね、

    でも、侍従長は知らなかった、そうでしょう?」




向けられた問いに侍従長が頷く。



   

   「王城が雇ったのではないとしたら、いったい誰に雇われたのかしら?」

   「それは……」




娘が強張った顔で言い淀む。



   

   「それに事件のあった次の日には、あなたはもう王城にはいなかった」

   「それは、あんなことがあったから!」

   「その上、城の者は誰も、あなたの今の居場所を知らなかったの、

    あなたを探し出すのにとても苦労したわ」

   「……」

   「ここには国王陛下も王太子殿下もいらっしゃる。 

    この神聖な場では、嘘は通用しないのよ」

   「脅しだ! 夫人は権力を笠にきて」「議長!」




宰相がまた怒号をあげたのと、衛兵長が手を挙げ議長に呼びかけたのが同時で、

思わぬ成り行きに目を白黒させていた議長は、発言の許可を願い出た衛兵長に

曖昧に頷き、壁際に退いていた彼は宰相に何か言う暇を与えず一歩前にでると、緊張ながらもはっきりとした口調で話し始めた。



   

   「私は被告人とは取り調べで初めて顔をあわせたのですが、

    取り調べ後、東棟の衛兵達が何度も私に、本当にまちがいないのかと

    聞いてきました。

    新任一年目の若い衛兵などは、自分は殿下に仕える彼の姿から

    “ 主に信頼されることの大切さを学んだ “ と言って、

    もう一度調べ直してほしいと私に訴えたほどです」

   「そうです!」




と、今度は衛兵長の隣にいた庭師が声をあげた。



   

   「庭師仲間もこれはなにかの間違いだと言ってます。

    彼と特別に親しいわけではないですけど、仕事のついでに

    みんな少しは、彼と話した事があって、それで……」





貴族のお歴々から注目を浴びて、最後の方は聞き取れないほどの

小声になった庭師だったがそれでも手を揉み絞り、彼はエミリオに

心配げな視線をむけた。


静かな、なんともいえない空気が議場の中に広がる。



そして、さっと天の光が差し込むように、しゅくとした声が

最上段からその場に響きわたった。



   

   「ここにいる者達と、この場にて良い時間が持てたことに感謝する。

    議会は一旦閉会とせよ。

    この後は、議長、宰相、法官長、とわれフェルラーが吟味する」




奥から前に進み出た国王が議場を見渡しそう述べ、その姿に皆が

立ち上がって拝礼する。


議長が閉会を宣言し、その場にいた者は囁き交わしながら

順番に議場を後にしていき、アスターは逸らすことなくエミリオを見つめ

続けていたが、彼は一度もアスターを見ることなく、腰縄を持つ衛兵と

ともに静かに退場していった。





ベッドの中で薄く目を開け、アスターは雨の音を聞いている。

多分もう起き出す時間なのだろうが、雨雲が垂れ込めているせいか

部屋の中はまだ薄暗く、雨が音を吸ってしまったかのように、

ひどく静かに感じた。


このまま雨が降りつづき、部屋の中はいつまでも音もなく暗いままで、

横たわったまま何もしないでいられるなら、どんなにいいだろう。


日が昇り日が沈み、また新しい一日を迎える。

そのことが今のアスターには苦痛だった。


もう何年も模様替えはせず自分好みに設えた部屋は、変わらず心地よく

手入れが行き届いているし、仕える者たちの手で、今まで通りに、

きちんと生活は支障なく回っていく。


それなのに …… 、 彼だけがいない 。


” おはようございます、王子!” そう言って笑顔で部屋にあらわれる

彼の姿だけがない。


両手で顔を覆いアスターはきつく目を瞑った。



   

   「…… くっ」




指の間から嗚咽が漏れる。


腰縄を打たれ鉄の輪で手首を戒められて、振り返りもせず議場を

出ていったエミリオ。

それが最後に見た姿だった。


あの日から二日後。

めずらしく国王の私室に呼ばれたアスターは、そこで、

彼が公爵家預かりになったと父王から聞かされた。



   

   「なんとかロンドミルに返そうとした、だがそれは叶わなかった。

    これが精一杯の処遇だ」




声もなく俯く息子に、国王がそう声をかける。




   

   「私は国王としてではなくお前の父親として、彼を宰相の意のままには

    させず、 姉、クリティールドに託した。

    だがここからは、国王として決めた事。

    王太子妃をメリアナ=ボゥエルに決定する。

    十日後には広く宣旨(王太子妃決定を国内にひろめること)を

    おこなう」




さっと顔をあげ、アスターは顔を歪ませた。



   

   「エミリオを嵌めたのは宰相です! 

    それは父上も気づいていらっしゃるでしょう

    彼は狡猾であるばかりか、卑怯な手を使うことも躊躇わないのだと、

    今回のことで身にしみました。

    その彼が、未来の王妃を操る者になるのでは ー ー」




手をあげ国王はアスターの言葉を止めた。



   

   「お前からエミリオ=デュッソを失った痛手を感じ取れば、

    王太子の議場での言動を知っている大貴族たちは、どう思うだろうか。

    それにロービスは、彼が公爵家預かりになったことを

    心良く思ってはいない。

    この二つが今後、良い方には向かわないだろう事は、

    お前なら、理解できるだろう」

   「…… 」

   「お前のその自由闊達さを大切にしたいと思い、好きにさせてもきた。

    だが、アスタリオン= D = リバルドに伝える。

    リバルドを名乗る義務と、責務を果すことを、今、国王として命ずる」





アスターは、国王の命に従った。


いままでと何の変わりもない王子の姿に、皆はいち侍従の犯した罪など

すぐに忘れていき、十日後となった王太子妃の宣旨へと興味は移っていったが、アスターはそうならなかった。

平気な顔で日常を続けることが苦痛となり、徐々にそれは彼にとって

大きな負担となっていく。



今、ベッドの中にいる彼には、降り篭る雨の音が、部屋の中で、いや心の中でしているように感じ、そしてぼんやりと、初めて幽体離脱した時のことが

頭に浮かんだ。


このままこうしていたらまたあの時と同じ様に、魂が身体を抜け出すのでは

とアスター思う。


もしそうなったら、すぐに愛しい者のところへ飛んでいけるのに…… !


本当にこのまま明るくならず、陽もささず、ずっと雨が降り続けばいいと、

アスターはそう心から願った。





    「王子が!」



驚いたため危くお湯を溢しそうになって、慌ててエミリオはティーポットを

持ちなおした。



   

   「ええ、執務室に向かう途中で倒れて二日ほど寝込み、

    やっと健康をとり戻したらしいけれど」




公爵夫人がそう答え、お茶は薄めで淹れてちょうだいと言葉を添える。



   

   「あの子には負担なのよ、妃がメリアナに決まった事も、

    宣旨が早まったことも」




可哀想に……. と呟いてティーカップを受けとると、一口飲んで、

夫人はまた、ぽそりと呟くように言った。



   

   「あなたを失ったこともね」




どう答えていいかわからずエミリオはただ手元を見つめたが、

王子のことが心配で、心はざわざわと落ち着かなかった。


ー ー 王子が寝込んだ姿など、今まで一度も見たことがないのに。


ー ー いつも元気で、周りを明るく照らすような方だったのに。


難しい顔で、じーっとティーポットを見つめているエミリオをちらりと見て、

クリティールド夫人は しばらく大人しく紅茶を啜っていたが、

“ それでね、 “ と、突然、言葉を続けた。



   

   「テェルン湖の畔に以前わたしが所有していて、今は使っていない

    別荘があるのだけれど、アスターがそこに一日か二日、

    静養に来たいというのよ。

    一人がいいと本人が言い張って、誰もついてこないらしいの。

    だけどまた倒れられても困るし、ねぇ…… 」

   「そうですね」

   「だから、あなた行ってくれない?」

   「えっ!」

   「 “ えっ “ じゃないでしょう? ” はい “ でしょ」

   「…… は……はい」




王都からは離れたこの公爵邸に来てから、エミリオは家僕として働いているが、もっぱら仕事は夫人のお世話か話し相手で、いつも気まぐれに彼女はエミリオを(まあ、エミリオだけとは限らないが)振り回すようなことを言いだし、

拒否権は言わずもがな有って無いようなものなのだ。


だが、戸惑いつつもエミリオの胸は高鳴った。


あの時は迷惑をかけれないと目も合わせず、結局、別れの言葉も

言えないまま王城を出てしまった。


身を切られるような辛さが、あれからずっとエミリオを苦しめている。

だけど彼は心を鈍くすることで、なんとかそれをやり過ごしていた。


初めてじゃない、とエミリオは思う。

覚えていないだけで、今までにも同じような事があった気がする。

幸せは求めた途端、やっぱり、手の先で淡く儚く消えていった、だからやっぱり求めてはいけなかったのだ。


ー ー きっと僕は、そういう運命に生まれたんだ。


本当に欲しいものは、手に入れようと思ってはいけないと、彼は何度も

自分に言い聞かせた。

ぎりぎりと自ら心を縛り、血が滲んでも構わず、そのうちに痛みも何も

感じなくなることをエミリオは望んだ。


誰も愛せなくなってしまっていい、恋しい人はもういないのだから......。


胸の高鳴りは急速に静まり、しんとした哀しみが降る雪のように心を覆う。


迷惑をかけた事を詫び、王子のことは決して忘れないと伝えよう。

逢えることが舞い上がるほど嬉しい、でもこれはきっと、別れのための

再会なんだ...... 。




だが、アスターがテェルン湖にやってくる日。



  

    「クリティールド様、これはいったいどういうことですか!」



別荘の一室で、エミリオは悲鳴のような叫び声をあげていた。




    「いいから、大人しくしなさい」

    「でも!」




にんまりと笑う夫人の後ろには夫人の侍女たちが数人いて、彼女たちは

皆一様に、まるで “ ネズミに襲いかかる直前の猫 “ のような雰囲気を

醸し出している。



   

   「さぁ、あの家僕の服を剥ぎとってしまいなさい」

   「はいっ」

   「うわぁぁぁ」



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