第31話 春の嵐 ~ 3 ~


僅かに開けた馬車の窓から入ってきた風に、彼は視線を窓の外へとむけた。

眩い陽光の中、まるで別世界へと誘うように、沢山のウワミズザクラの

花びらが舞い散っている。

その幻惑的な美しさにアスターは目を細めた。


テェルン湖は王都よりは北に位置し標高も高いため、サクラの開花は遅いが、

それでももう、盛りは過ぎたのだろう。

リバルドでは “ 王女の唇 “ と称される薄紅色の花びらを、サクラは

惜しげもなく降り散らしている。


その桜吹雪のむこうに、臙脂えんじ色の屋根と白い外壁を澄んだ湖面に

映した小さな建物が見えてきて、馬車は程なくその玄関前に停まった。

降り立てば、辺りは桜色の絨毯を敷きつめたようで、それは

目の前の数段の階段から玄関扉の前まで訪れた者を誘うように続いている。


御者に明日の迎えを頼み、アスターはその絨毯の上をひとり歩き出したが、

ぎぃと開いた正面扉から出てきた人影に足を止めた。


さぁーと吹いた風に花びらが流れる。


その薄紅色の渦の中にサクラの精かと見まごう麗しい女性が、

チェリーカラーのドレス姿で立っていた。


ー ー これは弱った心が見せる、白昼夢なのか


アスターはそう思ったが、女性の顔に浮かぶ戸惑いと恥じらい、

そして見たことのある髪の結い方に、“ そうか “ とひとりごちた。


ゆっくりと階段をあがり、彼は彼女の前に立つ。

そして、幽かな声で名を呼んだ。




   「エミリオ」

   「はい」




顔を赤らめ、恐縮するように肩をすくめ彼が返事を返す。




   「叔母上の命令か」

   「はい」




口元に苦笑いが浮かび、アスターはしばしあらぬ方を見ていたが、

ふっと笑んで不安そうに握り締められている手をとった。





   「どう呼ばれたい?」

   「それは、……. …… 王子の望むままに」

   「では、エミリア。 中に入ろう」





別荘はそれほど広くはなく、ホールからすぐが大きく窓をとった

サロンに繋がっていて、クリティールド夫人の別荘だっただけあって

調度品や家具は趣味良く、壁は、今はもうなかなか見ることもない

スマゥル織りのタペストリーで、飾られている。


満足げな表情を浮かべ王子は辺りを見回していたが、

つっと傍に立つエミリオに視線を落とした。





   「一人になりたいと言って来たんだが、」

   「はい。でも、クリティールド様は王子の体調を心配されて。 

    あっ、でも侍女達は、必要な物を整え終わってもう帰っていったので

    残っているのは、その… 僕だけです」

   「そうか、それで叔母上は、お前にまたそんな格好をさせて、

    私を励まそうとしているんだな」

   「そ、そうです、たぶん…… そうです……ね」





口ごもりなんとも中途半端な返事をかえしたエミリオに、

王子はまた微かな笑みを漏らして、目の前の上気した頬に手を伸ばした。




   「エミリアならば、そんな風には言わないな」

   「え?」

   「今はエミリアなんだろう?」




なんだか、自分を見つめる王子の目が艶っぽい。


やさしさの中に飢えた野生の猛りに似たものが見え隠れして、

胸はやかましく騒ぎだし、エミリオの頬はますます赤く、

よく熟れた桜桃さくらんぼ色になった。




   「逢いたかった」




そう言って王子の手がもう一方の頬にも触れ、すくい上げるように

上を向かされて、しっとりとした唇が落ちてくる。


何もかも奪うようにキスは続き、耐えきれなくなって

エミリオがよろけると、王子はその身体に手をまわし抱きしめた。





   「すまなかった、お前を守ってやれなかった」

   「いいえ……」

   「不甲斐ない私を許してくれ」

   「私こそ、今までのお礼も言わないまま城を出てしまって、

     許してください」





自分を包んでいる王子の身体が以前よりも細くなったように感じ、

エミリオは胸がつまった。

もう二度と逢えないと思っていたのに逢うことができた喜びと、

これが最後と思う哀しみが、徐々に恥ずかしさや戸惑いを消していき、

エミリオは目の前の広い胸に頬をよせる。


そうして暫く黙ったまま、お互いを確かめ合うように二人は

身体を寄せていたが、ゆっくりとアスターが顔をあげ甘えた口調で言った。

 




   「久しぶりに、お前の淹れるお茶が飲みたい」






とぷとぷと注ぐ、お湯の湯気の向こうに見える王子の笑顔に、エミリオも微笑む。


ポットの中で開き始めたモーディア産の茶葉とワイルドプランツが、

揺蕩たゆたうような芳香と、ワイルドの名にふさわしい

野の匂いを放ち始める。

十分に開き、良い色合いになったのを見定めてカップに注ぎ、

琥珀色の蜂蜜をとろりと垂らして、カップを乗せたソーサーを

エミリオは王子に手渡した。




   「あぁ、この香りとこの味だ」




一口啜り、瞼を閉じて王子が満足そうに頷く。

今日はエミリオも自分用にも淹れ、二人はゆっくりとお茶を飲み話した。




   「お身体はもう大丈夫なのですか」




そう聞くと王子は心配ないと言ったが、さっと頬に落ちた影に

エミリオの胸は痛んだ。


自由に快活に振舞っているように見えて、王子は気を張り詰めている

ようなところがある。

それは習い性となっているのか、王子自身も気づかぬほどだが、

側にいて王子だけを見てきたエミリオには感じ取れることだった。




   「幼い時だったな。教育係から逃げ出して、

    ブランケットにくるまっては隠れていた頃のことを、

    この間、思い出したよ」





静かな口調で、王子が思い出を語り始めた。




   「隠れているうちに眠ってしまって、そして……どうなったと思う?」

   「結局、見つかってしまったとか」

   「いや、知らぬうちに魂が身体を抜けだしていたんだ」

   「えっ、魂が?」




驚いた声をあげると、王子は嬉しそうに笑った。





    「信じられないだろう?

     だが、いつの間にか私は幽体離脱できるようになっていて、

     それはそのあと何年も続いた、あの日までは

     ひどい夕立にあって森の小屋に逃げ込んだ日だ

     エミリアと一緒だった」




どきんと胸が大きな音をたてる。


王子の口から “ 彼女 “ の事を聞くのはこれが初めて。

それもあるがそれだけではない、なぜか怖れにも、期待にも似た感情が、

さぁっとエミリオの心を支配する。


どういうことだろう?

怖れは深く底なしに濁った泥のようで、わずかな期待は泥の中に混じる砂金のように、キラリと光をエミリオの心に投げかけた。

   




   「彼女はロンドミルの公爵令嬢だった。

    幽体離脱しては城を抜けだして、広い世界を飛び回っていた

    私と彼女はムリノーの公爵家の森で出会ったんだ。

    彼女は変な巻き毛の犬をつれていたよ、名前は……

    そう、アルゴといったな」





心臓の音はドクン、ドクンと速く強く、エミリオの中でだんだんと

大きくなっていく。





   「エミリアは私を幽霊だと思ったらしい。幽体離脱で身体の輪郭は

    霞んでいるし、自由に空中を飛びまわれたからね。

    でも彼女はすこしも怖がらず、私たちは仲良くなり、

    何回も逢ううちに…… 私は恋に落ちた。

    でも同時に、身分を隠している事を悩みはじめた。

    リバルドの王子だと言えなかったのは、真実を知ったら、

    彼女が距離を置こうとすると思ったからだ。

    幽霊のままの方が気楽で、煩わしさから逃れていられた」

   「……」

   「でもあの夏の日。彼女に初めて口づけたあと、私は自分が

    誰かを告げ、正式に彼女と交際できるようにしようと思った。 

    だが、稲妻が……」




大きな音は今は耳の奥に集まり、王子の声をかき消すほどになっていて、

様々な光景がパラパラとめくられる絵本のように、

次々と目の前に浮かび消えていく。



...... 咲き誇る桜花、渦巻く毛並みのビオス・ドゥーグ、高い木のてっぺんの

巣箱、夏空、雨、走る稲光、雷鳴、儚く消えていく少年 ...... 。



頭の中に、今度は心臓の音とは違う不快な音が響き、

こめかみがズキンズキンと傷んでエミリオは身体を屈めた。





   「エミリオ?!」




王子の声が聞こえ、でもなぜかそれは少年の叫び声に変わる。





   「エミリア、僕はリバルドの ! 」




ー ー 逢いたい、逢いたいわ、デュー、


かっと身体が熱くなり足先や指先が痺れはじめ、エミリオは

ソファから崩れ落ち、床に膝をついた。


王子が駆け寄るのが見える。



でも…… 、

ー ー いいえ、違う、 あれは、デューよ……。














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