公平な獣と平等な肉(後)

「なぜですか。ザデュイラルにも被食階級があるでしょう、貴族が負う義務としては過酷だと感じます。キリヤガン〔Kyriyagan〕は実際そうしているのでは?」


 ザデュイラルと国境を接する北の大国・キリヤガン連邦では、〝農奴ラブターシャ〟〔Rabtasha(※食用猿ラブタスの語源)〕という被食階級が存在し、第一次産業と贄の供出を一手に負わされている。皇帝や上位の貴族は専用の〝牧場〟を囲い、特別な飼育も行うとか。だからてっきり、ザデュイラルも同じ仕組みを持つと思っていた。

(※編註……キハダの産地・リューマもキリヤガン国内の州)

 僕の質問に、カズスムクはこともなげに答える。


「いかなる身分であっても、贄として身を捧げることは尊い義務です。上に立つ者だからこそ、その責から逃れることなく範を示すべし、と教えられました」


 つまり〝高貴さには義務がともなうノブレス・オブリージュ〟だ。

 輪廻転生の概念を適用すれば、供犠方の制度もすじが通っていた。食われた者は、未来においては自分を食った者の子孫に生まれ変わるのだから。

 平民が貴族に、貴族が皇族に食われることは、それが死後であっても地位の向上を意味する――まあ、理屈上は。それが彼らの宗教的観念ということか。


「分かりました、生え変わりの祝いに食べる子供を一緒に育てるのは、つまりあなたがたの通過儀礼だ。隣にいるものが死んだり、殺されたり、食べられたりする社会に適応するための。皆そうなのですか? 誰もが死を定められている?」

「私と彼女は少し違いますね」


 眼帯の伯爵は、落ち着き払った所作で茶を楽しんでいるように見えた。


「長男、あるいは次男は家を継ぐため贄の候補としては考えられていません。そして当主の座についた以上、たいてい、葬儀で弔いのために食べられることになります」

「誰が死んで誰が生きるか、わたくしたちは出会い頭にそれを判断しながら会話を交わすわ。あなたはタミーラクの名前の意味を知らなかったから、新鮮な気持ちね」


 次の瞬間、僕が見たものは幻だったかもしれないが、記しておこう。ソムスキッラは牙のように犬歯をむき出して、凄絶に笑った。


「わたくしは彼と結婚して子供を産む、その子たちの中から、カズスムクは誰を陛下に捧げるか選ぶ。そして贄にする子もしない子にも、ニマーハーガンの生け贄を用意して、角が生え変わるたびに食べさせてあげるの。悪魔らしいでしょう?」

「そんな、」


[この時の自分が彼らに何を言おうとしていたのか、一二七七年にはどうしても思い出せなかった。当時の手記にも残っていない。タミーラクからの一言で、僕の考えなんて吹き飛んでしまったから。]


「あんた言ったじゃん、俺たちのことを公平だって。ほんとその通りだよな?」


 その言葉は僕の心臓を貫くに充分だった。

 理解しようとすればするほど、かえって無理解と無知を晒してしまう。鏡の迷宮に入り込んで、自分がどこを向いているのかも分からなくなったような困惑。

 タミーラクはどんな思いで、僕の話を聞いていたのだろう。いかに厚顔無恥には自信のある僕も、自分の言動を振り返って愕然とした。


「僕は……僕はとんだ的外れなことを……」

「急に落ちこむなよ、気色悪い」


 タミーラクは軽く胸をそらして、両腕を組んだ。

[そうした動きに合わせて、長い髪が揺れる。後で知ったが、これもまた贄の特徴だ。殺されるために用意された子供たち……彼らは死後、できるだけ遺せるものが多いように、と髪を伸ばす。頭髪は可食部ではないし、無理に食べても人体に有害な鉛が含まれている。だから贄の遺髪は家族の大事な取り分で、多くはそれを代々継ぎ足している織り物に使うのだ。]


「お気になさらず、イオ。あなたはただ本当に、ご存知なかっただけで……今知ろうとされているのでしょう。何も卑下されるいわれはないのです」


 まばゆい氷の微笑みが、変わらぬ穏やかさで言う。


「落ちこんで見えますか。確かに僕は今非常に恥じ入っていますが、少し違うのです。もしそのように見えるとしたら、死ぬことが決められた人たちが、当たり前のようにそこかしこにいる状態には不慣れだからですね」


 これが、人が人を食う世界というものか。ああ、食人鬼タミラス、霜の悪鬼! 隔絶した文化圏という点では、間違いなく蛮族だ。


 ではアジガロは? これから何か大きな病気や怪我を負えば、彼は生け贄となる運命から逃れられるのだろうか。その場合、彼は社会的にどのように扱われるのだろう? そのような形で生き延びたとして、幸せになれるのだろうか?


 僕がぐるぐると考えこんでいると、タミーラクを少し苛つかせたらしい。彼はがたん、と音を立てて天板に手をつき、立ち上がった。

 その表情に湛えられているのは、熱い怒りではなくひたむきな信念。自分の心臓がいつ止まるか、既に心に決めたと言うような、精錬された真新しい鋼鉄の決意だ。


「死ぬってのは狭い範囲での結果だ。確かに俺の人生に先はないけど、そうして一人一人の贄が覚悟を決めて食われることで、皆の命をつないでいく――神聖な役目なんだよ。もし怪我や病気で食えない体になったら、控えに用意された一族の誰かが代わりに陛下の元へ行く。そんな身代わりを出すなんて、絶対にイヤだね」


 着席を促すように、カズスムクは友人の腕をそっとなでた。

 そうしてタミーラクが座るのを待って、暗いトーンで次の話を切り出す。金色の眼が、遠い月のようにぼんやりと輝いていた。


「マルソイン家は前回、供犠方のお役目を十全に果たせませんでした」


 ソムスキッラが「その話は」と気づかわしげにしたが、眼帯の伯爵は気にしない。


「控えに用意されていた叔母上のご子息が病死され、本命の贄も病が見つかって。そのために、もともと予定になかった者を捧げることとなったのです」

「でも、それは誰も悪くないことよ!」


 婚約者の手を両手で包みこんで、ソムスキッラは話を打ち切らせた。


「不幸な行き違いだし、突然連れて行かれた子は本当に気の毒だったわ。それでも、もうそのことを責めるのはやめて、カズー」

「そうだね、キュレー。贄は健康が第一だ」


 カズスムクはどこも見ていないような、うつろな微笑みを向ける。そう感じられたのは一瞬のことで、すぐに温かい感情の血潮が、肌の下に脈打って流れた。

 空気を変えようとしたのか、タミーラクが白々しいほど快活な声を出す。


「健康なら任せとけ、俺はちゃんと自己管理もしてる。父上なんて、手を握っただけで俺の体重と体温が分かるんだ。いつ食われても良いぐらい、完璧だよ。ははっ!」


 底抜けに明るい笑いは天井まで届く気がした。砕けてばらばらになった声が僕らの間に降り注いで、別の言葉をささやく気がする。悪質な錯覚だ。

 きっと、僕はそのささやきに耳を傾けるべきなのだろう。でも、その時の僕が拾えたのは、カップを持つカズスムクの指が異様に白くなっていること、そして。


――私は、大事な友達が死んだ時、その体を食べられないということが、ひどく恐ろしかったのです。

――あんなに大好きだったのに。その命が私の血にも肉にもならないのなら、


 皇帝に差し出された贄を食べるには、皇族の祭宴に招かれねばならない。貴族ならば、最低でも帝国イグニブラ議会ウィドル〔Ýĝnibla vidle〕の議席を持つ必要がある。議員になる資格は二十五歳からで、タミーラクが贄になるのは二十歳だ。


「伯爵。もしかして、あなたが食べたかったカナリアというのは」


 ことり、と。


 白いカップがひっくり返り、薄桃色の茶がつややかな天板を濡らしていく。カップを持ち上げようとして、カズスムクが落としたのだ。

 明らかに偶然の事故などではない。そのことが僕の疑問を肯定していたが、タミーラクはまるで自分が失言したかのように、視線をあてどなく泳がせた。

 それから、隣の友人を見つめ直す。


「……悪いな、カズー」

「別にミルのせいじゃない。関係ない」


 それはごく素朴な、すねた少年の声だった。これまでカズスムクは、タミーラクと話しているくだけた調子の時も、貴族として、当主としての振る舞いを保っていた。

 だがこの声には初めて、何も装わない素の彼が出ていたのだ。


「はいはい、関係ない関係ない。……いや、ほんと悪かったって」


 あくまで軽い口調で言いながら、タミーラクはばつが悪そうに頭をかく。ソムスキッラは二人を、凍えたような、鋭い割れガラスのような眼で見ていた。


「ほら、角ぐらいならお前にやれるって、約束したよな。俺が死んだら贈るよ」


 来年になればタミーラクは角を赤く塗り、正式な贄となる。そして皇帝に「あなたに捧げられる【肉】です」と拝謁はいえつつかまつる、と。

 だから、カズスムクが受け取るのは贄の赤色スタンザに染まった角だ。

……眼帯の伯爵は返事もしない。「時間です」と両手を打ち鳴らして顔を上げると、彼はもうにこやかな笑みを浮かべていた。


「お開きにしましょう。今日はお越しいただき、ありがとうございました」


 まばゆい氷の笑みは、以前とは光の色が違って見える。ぼくはそれに対して、これ以上何か言うような余力は持ち合わせてなどいなかった。

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