30

「!」


 思わずぼくは声の方に振り向く。


 引き戸を開けて入ってきたのは、とても綺麗な女の人だった。どこかで見たことあるんだけど……


「川村先生!」高科さんが目を丸くする。


 あ……そうか。思い出した。この人、高科さんのピアノの先生の、川村百合子先生だ……


「ごめんなさいね、立ち聞きなんて趣味の悪いことをして……」そう言いながら、川村先生は優しく微笑む。


「瑞貴ちゃん、おかしくなっちゃっていいのよ。ダメになっちゃっていいの。あなたは自分がおかしくなる、ダメになる、って思ってるみたいだけど……人間、そっちの方が普通なの。むしろ、今までのあなたの方が、よっぽどおかしかったのよ」


「え……」


「あなたときたら、もう寝ても覚めてもピアノ、ピアノだものね。今まで腱鞘炎にならなかったのが不思議なくらい。どう考えたってやりすぎよ。だから、あなたもたまにはピアノをすっぱり離れて、恋愛にうつつを抜かすくらいで、ちょうどいいの。じゃないと、本当に腱鞘炎になっちゃうわよ」


「……」高科さんは目を伏せ、小さくうつむいた。


「それに、好きな男の子が誰か別な女の子といたら、嫉妬するのは当然よ。私だって未だにそうだもの。ほんと、あなたは感情が希薄で、いつも表情が変わらない。昔はそんな女の子だったわよね。今みたいに泣き叫んでいる姿なんか、想像もできなかった。でも……瑞貴ちゃんも、ようやく人間らしくなってきた……ってところかな。誰かさんのおかげで」


 そう言って、先生はぼくをちらりと見た。


「初めまして。お噂はかねがね。瑞貴ちゃんの彼氏の、坂本翔太君ね? 私、彼女のピアノの先生の、川村百合子です」


「は、初めまして……」


 ぼくはオドオドしながら頭を下げる。この人、近くで見ると、ものすごい美人だ……ちょっと化粧が濃そうだけど……


「瑞貴ちゃん」先生は高科さんに向き直る。


「あなたは、翔太君に別れを告げた時、恋愛がどういうものか分かった、これで十分、って思ったんでしょ? でもね、それは違う。あなたはその時には全然分かってなかったの。今初めて、あなたは恋愛がどういうものか、本当に分かったのよ。楽しくてウキウキする、そんなことばかりじゃない。ドロドロしてて、辛くて、悲しくて……そんな気持ちにもなるものなの」


 先生の口調は、とても優しかった。


「私は、それをあなたに知ってほしかった。でも……ごめんなさいね。こんなに苦しい思いをさせて……まさか、あなたが倒れるまで頑張り続けるとは、思ってなかったの……」


「先生……」


 川村先生は、高科さんの隣に腰かけて、彼女を抱き寄せる。


「ほら、もう大丈夫だから……あなたには、こんなに素敵な彼氏がいるじゃない。あなたが辛いとき、一緒になって泣いてくれる……とっても優しい彼氏が、ね。こんな人、そう簡単には見つからないわよ。大事にしなくちゃ、ね」


「でも……でも、わたし……」高科さんが川村先生を見上げる。涙声だった。「翔太君に……ひどいことを……」


「いいの。もう何も言わないで。彼だって、あなたのことを許せないって思ってたら、わざわざここまで来たりしないわよ。ね、翔太君、そうでしょ?」


 そこで川村先生は、ぼくに視線を送る。ぼくは思わずうなずく。


「え、ええ」


「ほら、ね。だから……大丈夫よ、瑞貴ちゃん……安心して、ね?」


「先生……!」


 そう言って、高科さんは先生の胸に顔をうずめ、大声を上げて泣き始めた。


---


 泣き疲れたのか、眠ってしまった高科さんをベッドに横たわらせて、川村先生はぼくに言った。


「翔太君、もう随分遅くなっちゃったし、送ってあげるわ。おうち、どこ?」


「あ、でも、電話すれば、母が迎えに来ることになってるので」


「そう……いい機会だから、ちょっと、君と話がしたかったんだけどな」


 ……。


 正直、ぼくもこの人と話がしたかった。高科さんのこと、この人はすごく良くわかってる。いろいろ聞いてみたい。


「……わかりました」


 ぼくはうなずいた。


---


 川村先生の車は、小さくて古そうな外国車だった。


「狭くてごめんね」運転席に座りながら、先生が言う。


「いえ、大丈夫です」


 そう。エフディの後ろよりは、遥かにマシだ……


---


「君にも、ずいぶん辛い思いをさせちゃったわね。ごめんなさい」


 左手でシフトレバーを三速に入れながら、川村先生がすまなそうに笑顔を作る。中田先生のエフディと同じ、マニュアルシフトなんだ……「先生」と名の付く女の人は、みんなマニュアル車に乗るものなんだろうか……


「ううん。いいんです。むしろ、ありがたかったです」


「え?」


「先生がああ言ってくれなかったら、ぼく、高科さんと付き合うことなんか、できなかったと思いますから……だから、感謝してます。ありがとうございました」


「……なるほどね」


 先生は納得したようにうなずくが、それ以上何も言わない。何が「なるほど」なんだろう。


「ね、翔太君」ハンドルを握って前を向いたまま、川村先生がちらりと横目で僕を見る。


「はい」


「私はね、昔は音大に入って国際コンクール出場を目指していたの。でも……残念ながら、私にはそこまでの才能はなかった。だから、故郷に帰ってピアノ教室を開いたの。そして、瑞貴ちゃんに出会った」


「……」


「私は彼女が子供の頃からずっと見てるけど、彼女には本当に才能があると思う。だから、私は彼女を夢中で育てた。彼女はどんどん上達していった。今はもう、演奏技術は大人のプロも顔負けなくらい。それに、あれだけピアノを弾いてて腱鞘炎にならないなんて、普通じゃないもの。天才としか言いようがないわ。彼女なら、国際コンクールに出場するのも夢じゃないと思う。でも、そのためには……表現力の問題をクリアする必要があった」


「……」


「彼女自身も、ようやくそれに気づいたみたいでね。だけど……こればっかりは、私にも教えられない。ピアノの技術ならまだしも、ね。そこで彼女に提案したの。彼氏を作ってみたら、ってね。それに君が巻き込まれた……ってことかな。事態は概ね私の思惑通りに進んだんだけど、まさか、瑞貴ちゃんが倒れるとはね……そこまでは予想できなかったな。彼女に悪いことしちゃった」


「……」


 先生の話を聞いていて、なんかちょっと、腑に落ちないところがあった。だけど、それが何なのかまでは、わからなかった。


 しかし。


「翔太君、『この人、なんだか彼女を自分の夢をかなえるための道具にしているみたい』、って思った?」


「……!」


 それだ……はっきりした。ぼくの中で腑に落ちなかったのは、まさにそのことだ。だけど、まさか本人から言われるとは……


「い、いえ……」


「ううん。いいのよ。はっきり言って」先生はぼくの心を見透かしたかのように微笑む。「私自身も、そう思うもの。彼女に酷なことをさせてるかもしれない、ってね。でも……これは、彼女も望んでいることだからね。彼女の夢は私の夢と同じ。私と彼女は同じ方向を向いている。少なくとも、今はね。でも……この先どうなるかは、分からないけどね」


「え……」


「彼女ね、最近ジャズピアノにも興味を示しているの。それは君も心当たりがあるでしょ?」


「え、ええ。なんか、オスカー何とか言う人が好きだとか言ってましたよ」


「オスカー・ピーターソンね。ひょっとしたら彼女、いつかのタイミングで、クラシックからジャズに転向するかもしれないわね」


「そうなんですか?」


「わかんないけど。彼女、ラヴェル好きでしょ? クラシックと言っても、ラヴェル自身、かなりジャズの影響受けてる作曲家だからね」


「へえ!」


 知らなかった。でも、よく考えたら、ラヴェルってドビュッシーと同じ年代だよな。確かドビュッシーって19世紀終わりから20世紀初めの作曲家だから、ジャズと時代が被ってるのか……


「だから、私は彼女がジャズの道に行くことになっても、それはそれでいいと思うの。止める気はないわ。ひょっとしたら、ジャズピアニストとして大成するかもしれないし」


「はぁ」


 ぼくは……うーん。どっちでもいいかなあ。彼女がピアノを弾く姿が見られるんだったら。


 "目的地に到着しました"


 カーナビの音声。いつの間にか、車はぼくの家の前にいた。


「あ、ここです。ありがとうございました」


 車が止まり、ぼくがシートベルトを外そうとした時だった。


「ちょっと待って」


 川村先生が、真剣な顔でぼくを見ていた。


「はい」


「翔太君、今でも瑞貴ちゃんのこと、好き?」


「ええ」ぼくは即答する。「もちろんです」


「そっか」先生はニッコリする。「彼女もね、たぶん今回のことで、どれだけ自分が君のことを好きか、思い知ったことでしょうね」


「……」


 ぼくの顔が、熱くなる。


「でもね」


 また先生がまじめな顔に戻る。


「これは、私の大好きな少女マンガのセリフなんだけどね。主人公の女の子が才能のあるテニス選手なんだけど、先輩の男の子と恋仲になって、調子を崩してしまうの。その時に女の子のコーチが、その先輩の男の子に、こう言ったのよ。『男なら、女の成長を妨げるような愛し方はするな』、ってね」


「女の成長を妨げる愛し方……?」


「ええ。そっくり同じ言葉を、私はあなたに送るわ。同じ相手に打ち込む者として、ね。意味は自分で考えなさい。いいわね」


「は、はい……」


「それじゃ、おやすみなさい」


「はい。おやすみなさい」


---

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