29

 なんてことだ……


 彼女は、本当にぼくのことが好きで、付き合ったわけじゃなかったんだ……


「そうね、本当にたまたま。でも、翔太君は見た目もそんなに悪くないし、ショートショートで面白い作品書いてたから、ちょっと気になってたんだ。そしたら細野君が演劇大会の話を持ってきたから……ちょうどいいや、この話に乗らせてもらおう、ってね」


「……」


「それで、翔太君と一緒に過ごすようになって、デートもしたり、キスもしたりして……ああ、恋愛ってこういうものなんだ、こういう気持ちになるものなんだって、分かった。でも、ピアノの練習がかなりおろそかになっていたから、これ以上恋愛するのはもうやめた方がいい、と思った。もう十分だろう、これで表現力も大丈夫だ、って。それで、翔太君と別れたの」


「そんな……」


 ぼくの目が、うるみ始めた。


「わかったでしょ? わたしはね、翔太君のことなんか、好きでも何でもなかった。ただ、君を利用したの。恋愛ってものがどんなものなのかを知るために。そして、目的を達成したら、もういらない、ってポイっと捨てたの。ひどい女だと思わない? これでもまだ、翔太君はわたしのことが好きなの?」


 高科さんは、無表情……に見えて、かすかに自嘲めいた笑みを浮かべていた。


「ううっ……ぐすっ……」


 とうとうぼくは、しゃくりあげ始めてしまった。


 本当に、ぼくは彼女に利用された、だけなのか……


 でも……


 ぼくの心に、引っかかっているものがあった。


 この2か月近く、彼女と一緒に過ごしてきた中で、ぼくなりに、彼女の気持ちが何となくわかるようになっていた。


 今の彼女は……どことなく、無理をしているような……そんな感じがある。


 いや、ひょっとしたら、ぼくがそう思いたいだけなのかもしれない。


 だけど……


 だったら、何で彼女は倒れたんだ? 倒れるまでピアノを弾き続けるなんて、普通じゃない。そうだよ。どう考えても彼女は無理してる。いったい何が彼女をそこまでさせたんだ?


「高科さん……」


 ぼくはすっかり涙声だった。


「本当に、ぼくを利用した、それだけなの? ぼくのことは、好きでも何でもなかったの?」


「そうよ」


 こちらを見ようともせず、彼女はあっさりと応える。

 その時、僕の脳裏に瀬川さんの言葉が蘇る。


 "優しすぎて傷つきやすいから、仮面をかぶって自分を守ってる。そんな子なのよ"


 もしかして……これが、彼女の仮面なのか?


 わからない。だけど……


 以前の彼女は、ぼくと話すときはいつだってぼくの顔を真っ直ぐ見ていた。でも、今の彼女はぼくから目をそらしたまま、唇を固く結んでいる。


 やっぱり、彼女はどこか無理してる。間違いない。


「でも……高科さん、なんだか、辛そうだよ……」


「!」


 高科さんが、ぼくの方に振り向いた。少し驚いたような顔だった。


 ぼくはボロボロ泣きながら、それでも無理やり笑顔を作ってみせる。


「ぼくは……たとえ利用されていただけだったとしても……高科さんと一緒にいられて、楽しかったし、嬉しかったよ……今だってそれは変わらない。ぼくを利用しているだけだとしても……それでもいいんだ。それが高科さんの役に立つのなら……一緒にいたい」


「……」


 高科さんは、下を向いてしまった。ぼくは続ける。


「でも、高科さんだって、ぼくと一緒にいた時とても楽しそうだった……だけど……それはみんな、嘘だったの? ずっと無理して、楽しいふりをしてたの……?」


「……」


 下を向いたまま、高科さんは黙り込んでいた。


 やがて。


「……楽し……かったよ……」


 高科さんの口から、か細く呟くような声が漏れた。


「!」


 ぼくは思わず高科さんを見つめる。


 雫が、ぽたりと彼女の手の甲に落ちる。


 高科さんが、泣いていた。


「楽しかったよ……」彼女は繰り返した。「だから……怖かった」


「え……?」


「翔太君といると、楽しくて……ピアノのことを忘れそうになる。それが怖かった……」


「高科さん……」


「このままじゃわたし、ピアノを忘れちゃう……ピアノが弾けなくなっちゃう……ダメになっちゃう……それが……とても……とても怖かった……だってわたし、ピアノがなかったら何もできない人間だもの……だからわたし、もう翔太君と会わない方がいい……会わなくなれば、ピアノに集中できる……そう思って、翔太君と別れたの……」


 そこで高科さんは、一つ鼻をすすった。


「翔太君と会えなくなって、わたしも辛かったし、悲しかった……だけど、ピアノを弾いているときは、それを忘れることができた。だからわたし、時間があればいつも、ピアノを弾いてた。そして……時間が経てば、きっと翔太君のこと、完全に忘れられる……そう思ってた。今までも、ずっとそうだったから……だけど……だけど……っ!」


 彼女は声を震わせる。


「おかしいんだよ……いつになっても、翔太君のこと、忘れられないんだよ……しかも、翔太君、このまえ美玖ちゃんと一緒に帰ってたよね?」


「……!」


 ぼくはギクリとする。そうか……確かに、2階の音楽室から、校門は丸見えだからな……高科さん、見てたんだ……


「それを見たら……なんだかもう、いてもたってもいられなくなってしまって……でも、翔太君はもう、わたしと付き合ってるわけじゃない。だから、美玖ちゃんと付き合ったとしても、何の問題もない。そう自分に言い聞かせても……ダメだった」


「……」


「嫌なの。わたし……翔太君が美玖ちゃんと付き合うの、すごく嫌なの。あの子に翔太君を取られたくない……でも、それ以上に……そんな風に思ってしまう自分が、もっと嫌だった。美玖ちゃん、昔、私を助けてくれた……いい子だから」


 高科さんはすっかり涙声になっていた。彼女の顔の真下の布団に、涙で大きなシミができている。


「それからはもう、ご飯も全然おいしくなくて……夜もあんまり眠れなくて……でも、わたしにはピアノがあった。ピアノはいつだって、わたしに寄り添ってくれた。わたしは夢中でピアノを弾くことしかできなかった。そして……気が付いたら、ここにいたんだよ」


「……」


「このままじゃ、わたし……おかしくなっちゃうよ……どんどん、ダメになっちゃう……どうしたらいいの? わたし……どうしたら、よかったの……?」


 そう言って、彼女は肩を震わせ、激しく嗚咽する。


 彼女の仮面は剥がれた。こんな風に激しく感情を表した彼女を見るのは初めてだった。これが本当の高科さんなんだ。だけど……


 こんなに彼女が苦しんでいるのに、ぼくには何もできない。どうしたらいいのか、全然わからない。そんな自分が、不甲斐なくてしかたない。情けなくて……悲しくて……涙が止まらない……


「ごめん……高科さん……ぼくには、どうしたらいいのかわからない……けど……」


 そこでぼくは鼻をすする。


「ぼくは……いつだって、高科さんの味方だから……高科さんがおかしくなっちゃっても……ダメになっちゃっても……ずっと、ずっと味方だから……何にもできないけど……一緒になって、泣くくらいのことしかできない……頼りにならないヤツだけど……ぼくは……ぼくは……」


 ダメだ……もう、何を言っているんだか、自分でもわけがわからない。


「翔太君……」


 いつの間にか、高科さんが顔を上げて、ぼくを見つめていた。


 彼女の顔も、涙でぐしょぐしょだ。


 しゃくりあげながらも、ぼくは無理やり笑顔を作ってみせた。


 その時だった。


「翔太君の言う通りよ」


 聞き覚えのない、大人の女性の声だった。

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