とおりすがりの世界線




 よく晴れ上がった春の午後。平日のショッピングセンター。

 長く伸びるフロアにはたくさんのテナントが並び、新商品やセールを彩るポップが乱立しているのが見渡せる。

 ゆるやかに湾曲する通路を進み、エレベーターにほど近い広場に設置された休憩用ソファに腰を落ち着けた。階下のコーヒースタンドで買ってきたエスプレッソをぐいっとあおる。

 三階まで吹き抜けの天井にはアーケードになった天窓があり、そこから燦々さんさんと陽光が降り注いでいた。

 まぶしくて、あたたかくて、心地よくて。

 それなのに俺の心は鉛を飲んだようにみっしりと重い。


 本日何度目かのため息を吐き出したところでふと、左隣に座っている男性の足元が目に留まる。

 清潔感のある黒のシューズ。それが、不自然な向きで行儀悪く外側へ差し出されていたのだ。

 よく見るとソファの左脇にたたんだベビーカーを立てかけている。どうやらそれが倒れてしまわないよう足で支えているらしかった。

 男性はシューズと同じく身なりもシンプルながらきちんとしていて、その姿勢のまま静かに読書に耽っている。思わずまじまじと、眼鏡をかけた涼しい横顔をのぞき込んでしまった。


「――あれ?」

 心中の疑念がそのまま、声に出た。

「もしかして、今泉先生? 高校の……理科の」

 言うと、眼鏡の男性は顔を上げ、小さく首を傾げてこちらを見返した。

「あ、俺、元教え子です。卒業したのはけっこう前なんですけど、化学の授業、受け持ってもらってて……」

「……竹中くん、かな?」

「そうですそうです。うわ、先生、めっちゃ久しぶり! よく覚えてましたね、俺のこと」

「君は補習の常連だっただろう?」

 印象深い部類の教え子だよ、と先生は薄く笑った。

「うわー、ほんと懐かしいっすね。先生、外国に行ってたんですよね? あの学校は辞めたって聞いたけど、先生って、いま何やってるんすか?」

 先生は俺が高三の時、海外の大学に留学することになったとかで卒業の時にはいなかったのだ。その後、あの学校には戻らずにそのまま退職したとの噂だった。

「ああ。知己を頼っての紹介で、さる大学教授のところで助手をさせてもらっているんだ」

「えーっ、そうだったんだ! すげぇ」

「すごくはないさ。ただ、好きなことをしているだけだ」

 昔と変わらず、さらりと物静かな受け答え。当時から先生はいかにもな理系眼鏡で草食系。とくに生活感のないタイプの教師だったから、ベビーカーは何とも不似合いだ。

「……結婚したんすね」

「ああ。帰国後、ご縁があってね」

「そっかぁ」

 俺は思わず、ため息とともにこぼした。

「先生、我が子って、どんな感じなんですか?」

 先生はさも意外なことを言われたというふうに、眼鏡の奥の目を丸くした。



 ――できちゃったみたい。赤ちゃん。

 付き合って二年になる彼女から打ち明けられたのがつい三日前。

 ――とりあえず産婦人科に行ってみるけど……一緒に来てくれる?

 不安げに揺れる声で訊ねられたのがつい昨日。

 やむなく午後からの用事に適当に都合をつけて、今日ここへやってきた。今いる通路の反対側に、産婦人科が入っているのだ。


 医療テナントのほうをぼんやり眺めながらもう一口、苦いコーヒーに口をつける。

 彼女に付き添ってやって来たまではよかったが、いざ医院の前まで来るとその異質な空気に気圧されてしまった。そこは初めて立ち入った、女性や乳幼児だけの特殊な領域だ。

 二十代前半の独身男にはまさに未開の地、アマゾン奥地の秘境みたいなもんだ。

 いぶかる彼女に必死で謝って、ここで待機していることを許してもらった。情けないとは思いつつ、こればかりはどうにもふんぎりがつかなかった。



「――正直、実感わかなくて。結婚ですら考えたこともないハプニングなのに、子どもなんて論外っすよ」

「そうか」

「まあ確かに、同級生も何人か結婚したって話は聞くようになってきたけど。畠山とか蒼井とか……覚えてます?」

「ああ」

「小野もデキ婚したらしいけど。でもまさか自分もそうなるなんて、考えもしなかった。――なのにあいつ、結婚式はゴンドラに乗ったり派手にやりたいとか、新婚旅行は南の島がいいとか、のんきなことばっかり言って……」

 ぷっと、先生が小さく噴き出した。

「おかしいっすよね?」

「すまない。昔、同じようなことを言っていた人がいたもんで」

「いや、笑えないすよ、マジで」

 こっちはそれどころじゃないってのに。

「なんなんすかね〜、結婚とか子どもとか。いいのかな、こんな感じで人生決まっちゃっても」

 先生は頷くでもなく、黙って話を聞いている。それでかえって先を促されているような気分になって、俺はぼそぼそと胸のわだかまりを漏らした。

「自信ないんすよ、ちゃんと家庭やっていけるのかなって」

 やっぱり黙ったまま、先生が目線で相づちを打った。

「先生はどうでした? ご縁ってことは、この結婚が運命の相手だって、ちゃんと納得できたんすか?」

「そうだな……」

 先生は指先を組んだ。節立った長い薬指にプラチナの指輪が光る。

「――昔、この人こそと思う女性と否応なしに別れたことがある」

「へ?」

「明確な理由と動機があって、僕は彼女の前から姿を消した。彼女のためを思えばこそで、今でもその選択は間違いではないと言える」

 唐突に始まった過去の話。彼女の前から姿を消した……ということは、それはもしかしたら、先生が留学に踏み切ったことと関係があるんだろうか。今度は俺が、黙って続きを待った。

「だけど彼女は納得しなかった。互いに気持ちがあるのに別れは不自然だと。どんな理由よりも互いを思い合う心こそがただ大切で、それさえたがえなければ、理由も理屈もなくとも未来はやがて、まるで当然の理のように作っていける、と。そう言った」

「互いを思う心……」

「そう。とてもシンプルで、根拠のない理論だった」

「そう……ですよね」

「うん。――だけど」

 先生は組んだ指先に目を落として小さくうなずく。

「後になって気づいた。確かに人生を決めるのはいつでも、理由や条件ではなく自分自身の心の持ちようだと」

「え……」

「たぶんきっと、いつだって彼女のほうが正しかった。とても勇気のある、女性だった」

 遠くを見るような先生の目を横から眺めて、俺はなんとも形容のしがたい冷えたコーヒーみたいな気分になった。

「じゃあ……じゃあ、先生にとって、今の結婚は……」

えん、だと思ってる」

「縁?」

「そう。巡会めぐりあわせ、とでも言おうか。星の軌道のように、もしかしたらそれは定められたものかもしれない、と」

「え、意外と夢想者ロマンチスト

 そうか、と少しだけ照れ臭そうに先生が目を細めた。

「だけどあながち間違ってはいないと思うぞ。結婚などというものは特に、ありとあらゆる理由や条件よりもタイミングやきっかけが案外、大事だったりする」

「タイミングと、きっかけ」

「そう。偶然も必然だったりするかもしれない。何かのきっかけも、定めかもしれない」

 先生の言うことは昔から小難しい。科学的なのか、哲学的なのか、よくはわからないけど。

「あとは、君のこころ次第じゃないかな」

 静かな凪のような先生の言葉は、かつての教師と生徒という立場も手伝って、俺の胸にすとんと落ち着いた。

 俺は文字通り、自分の胸に手を当てて考えながら再び通路のほうに目をやった。産婦人科のほうから若いお母さんが赤ん坊を抱いてこちらへと歩いてくる。さも愛しそうに幼子の顔をのぞき込みながら、その小さな顔にかかるやわい髪をはらってやっている。

 女はすごいな。あんなに若くても、子どもを産んだらみんなあんな聖母みたいな雰囲気になっちゃうんだろうな。

 あいつも――そうなるのかな……。

 その姿を想像して、なんだかわけもなく武者震いをして、俺は残っていたエスプレッソを飲み干した。

 先ほどの女性が目の前を通りすぎようとして――はたと気づく。

「あれ、お前、蒼井じゃん! 蒼井このかだよな? ほら、高三の時同じクラスだった――」

 若いお母さんだと思ったらまさかの同級生だとは。蒼井はきょとんと俺の顔をまばたきながら見て、それから、あ、と顔を輝かせた。

「えーっ、もしかして竹中くん? うそ、懐かしずぎっ」

「うっわ~、結婚したとは聞いてたけど、まさか赤ちゃんまでとは……マジすげえ」

「えへへ、うちの子。可愛いでしょ? まだ三ヶ月なの」

「マジか~……ほんとなんだよ、今日は。同窓会みてぇ。なあなあ、蒼井、覚えてるか? ほら、理科の今泉先生――」

 振り返って手のひらで示すと、その先では先生がベビーカーを拡げて立ち上げていた。

「あ、お待たせ、センセイ」

「乗せるか?」

「ううん。今寝たとこだから」

「そうか。じゃあ抱っこ変わるよ」

「ありがと」

「え……?」

 先生は蒼井から愛し子をその胸に抱き取り、それから、ああ、と置いてけぼりの俺を見た。

「勇気ある、僕の妻だ」

 もう蒼井くんじゃないけどね、と楽しげに笑う。

 勇気? と、蒼井は先生と俺を交互に見比べた。

「じゃあ、健闘を祈るよ。竹中くん」

 先生に促され、蒼井もベビーカーに荷物を載せて押し始めた。

「会えて嬉しかった。またね、竹中くん。そのうち同窓会とか、やろうね」

 呆気にとられたままの俺を残して二人、いや三人の後ろ姿は遠退とおのいていく。

「ねえ悠介、下の階にあるお店のチーズケーキ買って帰りたいな。新商品のやつ!」

「ああ。じゃあ、買い物が全部済んでからな」

「やった。今度来たら絶対買おうと思ってたんだぁ。抹茶味もあるんだって」

「そうか、楽しみだな」


 ぼけっとしたまま、聞こえてくるそんな平和な会話を聞いていると、後ろから呼声が降ってきた。


「お待たせ」

 彼女だった。俺の彼女。その腹に俺の子を宿した、俺の大切な彼女だ。

「ど、どうだった?」

「ええとね……」

「あ! いや、待ってくれ! その前に、言わせてくれ」

「え……?」

 唐突に立ち上がった俺に驚いて、彼女が目を見開いた。俺はその手をとって、しかと向かい合う。

「結婚しよう。俺と、家族を作っていこう」

 かつての恩師と同級生の幸せそうな姿に偶然再会したタイミング。心を自覚するきっかけ。――なるほど確かに必然なのかもしれない、なんて思えてしまう。

「嬉しい……ありがとう」

 彼女は頬を真っ赤にそめて、目尻を潤ませながら微笑んだ。こんなふうに笑ってくれるなら理由も条件もいらないな、などとまた納得しながら、俺はささやかな決意を口にする。

「次に産婦人科を受診するときは、俺も一緒に行くから」

「あっ、あのね。それなんだけど……」

 彼女がぽん、と手を打った。

「妊娠、してなかったの。便秘だって」


 まさかの言葉にあんぐりと口を開けて身動きもとれない俺を尻目に、てへ、と彼女は舌を出した。





                        

                          

                                 fin.

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ないものねだりの宇宙船 玉鬘 えな @ena_tamakazura

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