8






 その日の晩、リディアはいつもより早く部屋へ下がった。


 停電により、クレイヤンクール邸は照明といえば手持ちのランタンだけが頼りの暗闇に包まれている。



「それではお嬢様。おやすみなさいませ」

「おやすみなさい」



 ミミが頭を下げ、静かに部屋を出ていった。


 リディアがベッドの枕元に腰かけ、足を中に入れようと身体を横にそらすと、丁度窓のカーテンが少し開いていることに気づいた。曇り空の合間を縫った月明りが僅かに漏れてきている。


 立ち上がり、窓の傍へと足を向けた。



「……あら?」



 薄い紗織のカーテンの向こう、階下の庭の方に灯りがポツンポツンと見える。


 リディアは閉めようとしていたカーテンを逆へ開いた。


 灯りの中に、表情に緊張が見えるエルネストの姿を見つけた。他にも四、五人が庭を歩き回っている。大方アリアドネが襲撃してきた際に備えて配備している人員なのだろう。



 ソファーにかけておいたショールを肩から羽織り、バルコニーに出て、階下のその人を呼んだ。



「エルネスト様。連日遅くまでお仕事、お疲れではございませんか?」



 エルネストはハッとした表情で顔をあげ、誰が自分に声をかけたのか分かると、目に見えて狼狽ろうばいし始めた。



「リ、リディア嬢!? いけませんっ! 寝間着姿で出てくるなど!」

「ショールも羽織っているし、囲いもちゃんとあるから大丈夫ですわ」



 リディアの言う通り、クレイヤンクール邸のバルコニーはリディアの胸の位置までの高さがある漆喰で外や下からは見えないようになっている。


 だが、エルネストの心配の種はもちろんそこではない。あの怠惰の権化ともいうべきジョエルを唯一機敏に動かすことができるリディアと、本人も言う通りほとんど隠されているとはいえ、寝間着姿で会うなど。顔に出さないせいで分かりにくいが、ヤキモチ焼きのジョエルに知られたら。


 エルネストは周囲へ素早く視線をわせ、ジョエルの姿が庭にないことを確認するとほっと胸をなでおろした。



「今夜は冷えますから、早くお部屋へお戻りください」

「そうですわね。確かに、少し冷えるわ」

「えっ!? 貴女に風邪をひかれたら大変です! さぁ、お戻りをっ」

「え、えぇ。それじゃあ、おやすみなさいませ」

「いい夢を」



 リディアが部屋の中へきちんと戻ったことを確認し、エルネストはフゥっと大きな溜息をついた。


 この場にいないにも関わらずこんなに神経擦り減らす相手と、なんで同僚やってるんだろうとたまにどころか結構頻繁に思ったりもする。主に上官を怒らせた会議の後とかに。


 けれど、それでも長年同僚としてやって来たのは彼がふと見せる物悲しい雰囲気のせいだろう。それを間近でみると、何故だかこう、父性本能がくすぐられるのだ。普段はそんな気配は微塵も感じさせず、誰かを怒らせては同僚で親友であると目されているエルネストが招集される羽目になるというはた迷惑なヤツであるけれども。


 エルネストは同僚かつ親友と言われる存在の大事なお姫様を見送り、気を引き締めるべく頬を数回叩いた。



 一方のリディアは部屋に入り、窓の鍵を閉めて今度こそカーテンを隙間なく閉じた。


 つけておいたランタンの灯りだけが部屋の中をぼんやりと照らしている。



「正直まだ眠くないんだけど、仕方ないわよね」



 ベッドに入り、リディアはランタンの灯りを落とそうと身体を横へ捻った。


 ふと顔を上げると、先ほどまで立っていたバルコニーへ続く窓のカーテンが僅かに揺れ動くのが分かった。



「……誰かいるの?」



 窓はきちんと閉めたのは間違いない。閉めた鍵の感触がまだほんの微かに手に残っている。


 そうなると、今、目の前でカーテンが動くのはどう考えてもおかしい。



「誰? 今すぐ出てこないと大声を出すわよ?」



 リディアは手近なところにあった枕を掴み、戦闘態勢に入った。


 外で不審者に会ったことはあるけれど、屋敷の中、それもこのクレイヤンクール家の屋敷の中で会ったことなど一度たりともない。けれど、数々の襲撃犯を幸運にも撃退してきた過去がリディアを奮い立たせていた。



「本当に、貴女はお転婆なお姫様ですね。普通枕を抱えて応戦しようとは思いませんよ」

「……あら、それをおっしゃるなら、夜にベッドに入った女性の部屋に忍び込む男性の方が非常識じゃありませんか?」



 クスクスと笑いを噛みこらえながら姿を現したのはリオネルだった。しかも、昼に見た白いスーツではなく、漆黒のスーツに着替えている。



「こんな風に渡り歩いて、アリアドネに命を狙われているのをお忘れですの?」

「いえ? ですから、こうしてお会いしにきたでしょう?」

「……はい?」



 リディアはリオネルの言葉の意味が分からなかった。


 とりあえずベッドから起き上がり、床に足を下ろした。



「あの有名なクレイヤンクール家の当主、ジョエル・ド・クレイヤンクール。彼のおかげで私の仕事にも大変支障が出ているんです」

「貴方のお仕事?」

「えぇ。ですから、今度はこちらからこうして彼が最も大切にしている命を狙おうかと思い立ったわけです。こうも上手く潜り込めるとは思っていませんでしたが」

「……あなた、一体」

「リオネル・ド・ダランティーヌ。ブリタニカ公国の若き外交官です」



 あくまでもその設定を続けるつもりのリオネルに、リディアはキレた。



「人の好意を逆手に取るなんて真似、最っ低よ」



 リディアはスゥっと深く息を吸い、次の瞬間、華奢な体のどこからそんな声がと思う声量による悲鳴が屋敷中を駆け巡った。



「ちょ、すごいな。鼓膜が破れそうだ」



 リオネルは耳を押えながらも、カーテンをまくった。



「じゃあ、リディア嬢。今回は彼の不戦勝ということにしておいてあげるよ。様子見のつもりでもあったからね。でも、フフッ。君といると退屈しなさそうだから、私も気に入ってしまったんだよねぇ」



 リオネルの口調はいつの間にか普段の丁寧なものから、大層砕けたものに変わっていた。


 窓枠に足をかけながら、チラリとリディアの方を見てくる。



「というわけだから、また会おう」

「あっ!」



 リオネルが窓から飛び降りるのとリディアの悲鳴を聞きつけたジョエルが部屋へ駆けこんでくるのはほぼ同時だった。


 リディアは慌てて窓に走り寄って下を覗いたが、そこはもうもぬけの殻だった。それどころか地面に足跡一つ残っていないように見える。



「……」



 室内に静かに下りる沈黙に、リディアはものすごく気まずかった。


 元はといえば、自分がジョエルの反対を押し切って保護したのだ。そうなるのも頷ける。



「……何か言いたいことがあるならどうぞ」



 どんな言葉も今回は甘んじて受け入れるつもりだ。


 だからこそ、リディアはいつものように仁王立ちではなく、きちんと足を揃えて楚々とした令嬢風に反省しているところを見せている。



 しかし、いつまで経ってもジョエルは何も言わなかった。



「……ジョエル?」



 いつもならリディアのことをお人好しだ、やっぱりだ、なんて言ってくるジョエルは、ただ黙ってリディアの方をジッと見ているだけだ。


 不審に思ったリディアが彼の名を呼ぶと、ようやくフラフラとリディアの方へやってきた。



「……心臓が、止まるかと思った」

「……ごめんなさい。本当に悪かったと思ってる」

「心臓って簡単に止まるものなんだ」

「なにそれ。簡単に止まってもらっちゃ困るわよ」

「でも、僕の心臓は繊細だから、君の悲鳴を聞くたびに心臓が止まりそうになるんだ」

「……それなら私、悲鳴をあげずに済むよう頑張るわ」



 固く抱きしめてきたジョエルの腕を、リディアは今だけは振りほどけなかった。


 同じように、繊細だという彼の冗談なのか本気なのか分からない言葉にも反論することはしなかった。




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