第32話 試験の終わり、思わぬことの始まり

今までのあらすじ

※二十三歳のグルメライターの沙奈は、楽しいこともある反面、この仕事を続けるべきか迷っていた。

 そんなある日、日英ハーフの紅茶の先生だという「月代先生」に会う。親切なのになぜか周囲から孤立している月代の、自宅兼ティールームの奥のドアには、ナイフで切りつけたような不可解な傷があった。

 説明のつかないとまどいを覚えていると、彼女から「李先生」の中国茶の試験を受けるようにすすめられる。

 「数時間、うちで簡単な試験を受けていただくだけだから、大丈夫よ」と、あとになって月代は言う。

 沙奈は日中ハーフの「りんちゃん」達と三人で、横浜の月代の自宅兼ティールームで、李先生の中国茶の試験を受けることになる。


 日中ハーフの「りんちゃん」の母親は「劉さん」といい、中国で、日本人男性と離婚したあとも、年上の日本人男性と見合い結婚をし、日本に戻ってきた女性だった。


第29話 景徳鎮の茶碗(上)【人が一線を越える時】試験の日

https://kakuyomu.jp/works/1177354054894423195/episodes/1177354054922171561


 筆記試験のあと、実技の試験へ。試験が終わった。(以下本文続き)

―――――――――――――――――――――――――

 その後、試験が終わった直後のことはほとんど憶えていない。ただ、横浜の、月代先生の自宅兼ティールームにいた時は、ほとんど寝ていなかったせいもあって、ひどく気分が悪くて、なんといっていいか分からないけれど、なぜかとても不安で、気分が悪かった。


 最近、時々、月代先生と一緒にいるのは、とにかく辛かった。ありのままをいえば、私はそう思っていた。

 体調のいい時はそこまでではない。私や、お気に入りの生徒の顔を見ると、先生は心底嬉しそうな顔をする。その様子は上品かつ無邪気、可憐で、まるで少女のようだ。相手も、その喜びに照らされ、こちらにまで幸福感が伝わってくる。

 

 それを見ると、私が間違っているのだろうか、こう考えるのは悪いことなのか、と悩む。

 だが、睡眠不足の時に、断ってもしつこく呼びだされたりすると、そう思う。

 友達に相談すると、断ればいいじゃない、とよく言われる。確かに理屈ではそうなのだが、月代先生は、相手が目の前にいると、無茶苦茶なことでも、少なくともその場では、命令に従わせる独特の力があって、他の人も、あとから聞くと、私もそうだった、と言っていた。

 また同時に、こう考えると、自動的に、月代先生が、

『そんなわけないでしょ、私がこれだけよくしてあげてるのに!』

 と可愛らしく、あるいはヒステリックにいう声が、頭の中に響くようにもなっていた。家族を含むまわりの人が、同じことをいうのも、いつもではないけれど、聞こえた。実際、「とにかく月代先生のティーサロンには、もう行きたくない」と相談すると、泣きながら訴えても、そういう答えが返ってきたからである。

 こう思いかえすと、また先生が、

『そう思うのは、沙奈ちゃんが今、普通の状態じゃないからよ。グルメライターなんてお仕事をしているから。低俗な連中ばかりじゃないの。早く足を洗って、私とお茶を広める、素晴らしいお仕事をしましょう』

 と言い含めるのも聞こえた。


 ……そうだ、その日は、試験の日に初めて会った、中年の女性に、帰りも、途中まで車で送ってもらったのだ。

 気さくで明るい、感じのいい女性で、車中でこう言っていた。

「沙奈ちゃんだよね。グルメライターなんでしょ?私、あけみ。月代先生から、いつも話、聞いているよ」

「月代先生のお友達ですか?」


「月代ちゃんと会うのは、三回目かな。お菓子の講座で会ったのよ。でも、こういうイベントがあると、仲よくなれていいよね」

 私は何も答えなかった。


「私も横浜なの。A市まで帰るなら、B駅の方がいいでしょ。そこまで送るね」

「えっ、悪いですよ」

「そこまでなら大丈夫だよ。……グルメライターさんって、会うの初めて。すごいよね。どんな感じなの?おいしいお店、教えてくれない?」


 人からは、そんなに楽な仕事に見えるんだ。グルメライターだと言うと、ほぼ必ずこう言われる。そして、こういう言葉を聞いたのは久しぶりだ。そういえば最近、仕事関係の人や家族をのぞいて、月代先生以外の人に会っていない。新しい人に会うのは、久しぶりなのだ。


 あけみさんと話がはずんで、これも久しぶりに気が晴れた。ラインの交換もした。

「沙奈ちゃんって、いい子だね。今度一緒に、食事いかない?」


 こう言われてはっとした。……そうだよね、私、別に、悪い人間でも、おかしな人でもないよね。それなのにこの頃、何をやってるんだろう?

 

 確か次の日に、グループのラインで月代先生からこういうメッセージがきた。


『皆さま、試験を受けていただいて、本当にありがとうございました。

 私がずっと信じ、実感するのは、

「お茶と呼ばれるものは、人をつなぎ、幸せにもしうるもの」

 だということです。


 紅茶を飲むと、私は幸せになれます。最近は、その感動に中国茶との時間が加わりました。この幸せを広めたい。人を幸せにするお手伝いをしたいです。

 皆さまにも手伝っていただきたいわ。


 三万八千五百円で横浜にいながらにして、こんな試験が受けられて、免許が取れるなんて、皆さんは本当にラッキーな方々ね。私もよ(笑)。


 当日も言いましたが、この試験は、本当は上海で行わなければならないものだから、誰にも言ってはいけません。

 試験のもようと、記念のお写真を、アルバムにして皆様に送ります。どうかご覧ください』


 それにあとの十二人の人、合計十三人の受験者がどう答えたのか、憶えていない。ありがとうございます、とはいったかもしれない。いっただろう。ただ、それまでも、月代先生のメッセージに返信する人が少ないグループのラインだった。


 これで免許をもらったら、月代先生とは連絡を取らないようにしよう。これで終わるんだ、と思っていた。


 ところがある日、多分それから間もなくして、個別のラインで、月代先生からこんなメッセージが届いた。


『沙奈ちゃん、お振込みは三万八千五百円でしたので、あと千五百円、お願いいたします』


 繰り返すことになるけれど、最初に約束した、この中国茶の試験の費用は三万八千五百円で、ラインのメッセージにも初めからそう書いてある。追加で千五百円振り込め、ということなのだろうか。


 あとから考えると、これもおかしな話なのだけれど、まあ千五百円くらいだったらいいか、と振り込んでしまった。

 なんというか、千五百円で済むものなら、月代先生とのやりとりを早く終わらせたかった。

 先生と連絡を取ると、忙しいといっても、いつも長くなるし、連絡が多くて他の人と会いにくくなるし、とにかく、もうできるだけ接触をしたくなかったのである。


 ところが、千五百円を振り込むと、あとからラインで、話がしたい、というメッセージが届いた。どういう経緯で通話が始まったのか、最初の方は分からないのだけれど、途中からの言葉は、今でも先生の声が耳に響くくらい、はっきりと憶えている。


 最初は、あの口調で、

「あのね、またまたいいアイデアを思いついちゃった!私の中国茶の特別レッスンを受けない?皆さんをお誘いしているの」

「……はあ」


「実力が足りない方が多かったでしょう?だから今回、茶藝師にふさわしい人になるための、追加のレッスンを受けないかって、おすすめしているの」

「……」


「あとからこんなこと言うなんて、まるで詐欺みたいねぇ。うふふっ!私の特別レッスンは、月一回、八ヵ月間で十四万八千円よ」

「えっ……」


「このお金は、申しわけないけど、一括で私の口座に振り込んでいただきたいのね。あと、振り込んだら、お返しすることはできません。そのかわり、私が責任をもって、皆様をフォローします。どうしても払えないっていうなら、それでもいいわ。免許は記念にとっておいて。でも、ぜひ、受けていただきたいのね」


「……じゃあ結局、二十万円かかるってことですか?」


「二十万円じゃないわよォ、お一人、十八万八千円よ」


 妙にケロっとした口調で言う月代先生に言葉を失っていると、先生は、急に声のトーンを落として、こう言った。初対面の印象とはまったく違う口調と言葉だった。


「あ・の・さーァ、みーんな、そうしてるよォ?」


「……」


「一括で振り込みね!半額ずつ、っていう人もいるけどォ、できるだけ例外、つくりたくないからぁ」


「……払えません」


「なぜ?」


「払えません!……とにかく払えません!払えません」


 私が必死で言ったせいか、月代先生は、「う、うん」と少したじろいだようだった。だからなのだろうか、私が、「月々ならまだ……」と呟いたせいか、またすぐに復活すると、


「じゃあ、月々……、一回、一万八千五百円ずつお支払いになりたいってことね。……どうしても払えないっていうなら、それでもいいけど、毎月一日に必ず、お振込み下さい。……私の銀行口座は夫が管理しててェ、あなたの名前と、金額が一致しないからさーァ。毎月一日、必ずですよ!」


 私は通話を切った。外にいる時で、確か電車に乗っている時も、駅に着いてからコンビニエンスストアに寄っている間も、何度も何度も、月代先生からのラインの通話の呼出音が鳴っていた。


 自宅にたどり着いたらそのまま仮眠した。起きると、また、先生からの呼出音が鳴っていたので、私はでてしまった。


 月代先生はふたたび、急に、品のある、可憐な声になり、

「ごめんなさい。誤解をまねくような話で、びっくりしちゃったわよね。でも私はなにせ、親切で有名!プライベートでも、しっかりお教えしますからね、ねっ」


 通話が終わって、私はこの件を、まわりの人間に相談した。


「どうしよう、これ……」

「うん……」


「なんかまるで、脅迫されてるみたい……」

「そんな、月代先生が脅迫なんか、なさるわけないでしょ」


「でも、変じゃん」

「うん」


「変だよね。追加のお金払わないと免許もらえないのかな?これでまた、次の金額を要求されることはないのかな?……私、この試験の正式な名前も、いざという時の連絡先も、何も教えてもらってないの」


 そう言って、私はまた泣いた。

「どうしよう。嫌」


「……やめといたら」(続く)

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