第一幕 はじまりの日 II

 何かが視界に——あかい。

 扉を開け放った、ロビーの向こうに。

 淡く光る点が2つ、濡れそぼる雨の闇に揺れる。

 瞬間、グンと重力がかかり、立っていることができない。肺がされる。

 眞彦まひこは呻きながらしゃがみ込んだ。膝が上質な絨毯に沈んでいく。苔生色モスグリーンの生地に金糸で織られたつた。脂汗をかきながら、絨毯の模様に視線をさまよわせる。

 蔦の絡まる樹木じゅもく

 樹々の向こうに見える家族の団欒だんらん

 グラスしかない食卓。

 子どもが器用な手つきでグラスを飲み干す。

 形のよい唇から溢れる一筋の滴——葉擦れの音とともに、絨毯の金糸が真紅に変わる。

 眞彦は、喉の奥で声にならぬ悲鳴を押し殺した。


「池永さん⁉︎どうされましたか」

 異変に気付いたスタッフの声が届いた瞬間、すうと全身の力が抜けていった。

 咄嗟にロビーの向こうへ目をやる。紅い光は消えていた。

 大丈夫ですか、と集まる声に上の空で答える。

「その……少し疲れが出たようです。もう、今日はこれで」

 恐る恐る下に目をやると、そこには真紅色のかけらもない、いつも通りの絨毯が平然と敷き詰められているだけであった。

 


 楽屋へ戻る眞彦の脳裏には、先程の情景が焼き付いていた。

 絨毯の金糸があかく——まるで濡れたカンバスに顔料を垂らしたように広がる変化に、息をのんだとき。

 刺繍の絵と視線が交わったのだ。

 食卓の皆が一斉にこちらを向いた。皆一様に、けぶ睫毛まつげの奥から憂いの深い眼差しで眞彦を見つめてた。緑濃い森の、幽玄ゆうげんな宴。白皙はくせきの麗人たち。

 そして、外の闇に見た一対の紅い光。

 疲労と混乱のなか、眞彦はひどくおののきながら、胸の奥深い場所が鈍く熱を帯びるのを感じた。

 しとしとと雨だれのが、やけに大きくなった気がした。



 

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不死者のピアノ 越久馨 @nora2tc

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