三月の土曜日、ナイトアクアリウム

週末の喧噪に包まれた電車内。


手すりに掴まりで揺られながら、

松葉は先週の奏が告げた言葉を反すうした。


「取材は最後、か。最後……ね」


取材を無限に続けていても執筆は進まないのだから、それはそうだ。

きっと必要な情報や写真が十分揃ったに違いない。


「取材が終わっても、また遊べるわよね……?」


何度も一緒に外出したのだから、

友達と呼んで差し支えない仲だろう。


駅のホームへ入った電車から降りると、

帰宅する人波が電車へと吸い込まれていく。


流れに逆らいながら、駅から近い待ち合わせ場所へと向かった。


松葉には、遠目からでも奏の姿がはっきりと見えた。


夜の街並みは暗く、黒いジャケットが暗闇に溶け込んではいるが、

何度となく時間を共有した松葉はもう迷うことなく彼を見つけられる。


「いつもと逆ね、今夜は。待たせた?」


「ううん、時間通りだよ。じゃあ、行こうか」


「取材の場所は決まったの?」


美術館で聞いたときにはまだ目的地が決まっていないと言っていた。


今回も約束はしていたものの、電話で

呼び出されただけで行き先は聞いていない。


「今夜はね、ナイトアクアリウムに行くよ」


天井の高い館内は通常の照明が落とされ、

お互いの顔を認識するのがやっとだった。


足元と水槽を照らす青色の照明を頼りに、細い通路を進んでいく。


「足元、平気? 暗いから気をつけてね」


「大丈夫よ、照明でちゃんと見えてるから」


開けた空間に出ると、クラゲの水槽が壁にいくつもはめ込まれ、

フロアには円筒状の水槽が立ち並んでいた。


ピンク、緑、黄色。


小さな照明が水槽を照らし、

水の中で浮遊する半透明のクラゲを染めていた。


「すごい水槽の数ね……こんなに種類がいるの、クラゲって?」


「……いや、壁が鏡になってるから

奥行きがあるように見えるんだよ、この広場。」


たしかに、よく見れば鏡には

そっくりな色に照らされた水槽が映っている。


どれも同じ円筒の形状をしているせいか、

鏡の向こうが虚像だという違和感がない。


ビルの上階にある水族館だが、

その狭さを感じさせない演出がなされている。


「広いけど、ここも通路なのね。この先は何の水槽?」


「行ってみようか。魚以外もいるらしいから、きっと楽しめるよ」


浮かんでは沈むクラゲに目を惹かれながら、

さらに開けたフロアへ出た。

「ペンギンじゃないの。ビルの中で飼育してるのね?」


仕切りはガラスの壁のみが設けられ、

水中を青い照明で照らされていた。


壁際の岩場に造られたプールでペンギンが泳ぎ、寛いでいる。


愛らしい白黒の姿を見つめるカップルがプールの前にたたずみ、

それを遠目に見つめている松葉の腕が引かれた。


「もっと近くで見なくてもいいの?」


「……ああ、いいのよ。いい雰囲気なのに、

邪魔しちゃ悪いじゃない。ほら、先に進みましょう」


奏の背を押してフロアを横切り、

低いエスカレーターで上階へと進んだ。


壁の両面が水槽になっている細長い通路だ。


渦巻く小さな海水魚や鮫が青い水槽で表皮が銀に光っているが、

人間の歩くの通路はほとんど真っ暗闇で、他の客も見えなかった。


「静かね、ここ。ナイトアクアリウムっていうから

人気があって混んでるものだと思ってたけど……奏?」


振り返ると黒い姿が消えていた。


慌てて引き返すそうとするも、

慣れないハイヒールでつまずきそうになる。


前のめりに倒れそうになる松葉の腕が強く引かれた。


勢いをつけて何かにぶつかった松葉は、

とっさに壁に当たったのだと思った。


「――危ないよ、松葉さん」


見上げると、奏の顔が目の前にあった。


腰を横抱きにするように抱えられ、

転びかけた松葉は奏の胸の中にいた。


「あ……えっ、と――」


ヒールでつま先立った松葉と奏の間には、

わずかな距離しかなかった。


身じろぎすれば唇が触れてしまうほどの。


そのわずかな距離を、奏が埋めた。


薄い唇が、松葉の口紅で色づいた唇に触れる。

青い光だけが漏れ出る暗闇で、松葉はそっと目を閉じた。

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