三月の土曜日、美術館。

ヒールの踵がテラスの木材を踏み、

コンクリートとは違う心地いい響きを奏でた。


オフィスへ通勤で履くパンプスよりも、踵が高い。

ほんの少しだけ高い、ハイヒールだ。


開館して程ない美術館の入場口ホールは人でひしめいているが、

あの黒い姿はまだ現れていなかった。


松葉はテラスのベンチに座ってゆっくりと待つことにした。


今回も一緒に電車で取材に行くのかと松葉だが、

奏は用事を済ませてから来るらしく。


あえて余裕を持たせて到着したのは

美術館が松葉好みの建物だったからだ。


うねるような全面ガラス張りの外観は、

雲一つない陽射しを受けて薄青に輝いている。


まるで地上を通りすぎようとする巨大なガラスの波だ。


通りには博物館も建ち、並木道が青々とした

広い庭園を一周するように立ち並んでいる。


ガラスの美術館も、風景も、そう退屈はしない景観だった。


景色を眺めていると開館の時間になったのか、人混みが流れ始めた。


老齢の婦人や、親子連れがほとんどだ。

みんな一様に品のいい服をまとい、ガラスの波へ飲まれていく。


その中に目立つ色の鮮やかな服が見えた。

花弁のようなピンクのワンピースが、総レースの袖や裾を揺らしている。


落ちついたブラウンの髪はゆるくパーマがかけられ、

横顔を見ただけでも華やかな可愛いらしさがうかがえる。


目を引く後ろ姿を眺めてるうちに、彼女も館内へと吸われていった。


「ごめん、お待たせ」


いつも通りに黒い奏が走って近寄ってくる。


地下鉄から上がってきたのか、松葉とは

違う方向からテラスへ上がってきた。


「大して待ってないわ。用事っていうのは済んだの?」


ニットワンピースの軽い裾を掃ってベンチから立ち上がる。


「うん……わあ、ワンピースだ。

スカートは履いてたけど、ワンピースは初めてだよね?」


「そうだけど、そんなに気合の入った服じゃないわよ」


たしかに新しい服だが、これは会社にも着て行けるようなデザインだ。


グレーがかった薄いラベンダーの生地をウェストの

リボンが締め、膝下へと裾が広がっているシンプルなもの。


「似合ってると思うよ。いつもオフィスカジュアルだけど、

プライベートもそういう雰囲気だよね」


「組み合わせて会社に着て行けるのが楽なのよ。

ラフすぎないし、場所を選ばず着て行けるでしょう」


係員にチケットを渡し広いホールに入っていくと、

入場客はもう展示口の方へと捌けていた。


「企画展のポスターは見たけど、絵画の展覧会なの?」


「うん、海外から借りた絵を展示してるんだって。


会期中だけどもう終わりも近いし、そう混んでないと思うけど」


展示への通路をくぐると、たしかにそれほどの混雑ではなかった。


白い天井へ伸びる長い解説ボードを見上げると、

ロシアの美術館から選ばれた所蔵品を飾っているらしい。


絵画の歴史が章立てて回廊を作り、

近代絵画の赤や青の濃さが、まず目に飛び込んできた。


人間が腕に触れ合い、あどけない天使が座る。


回廊の入り口には宗教画が多かった。


それが次第に回廊を進むにつれ、黒に近い濃色になり、

より人間の艶めかしい肌の白さが際立つ作品が増えていく。


奏は目の前に掛けられている作品よりも、

先の絵を遠めに眺めているようだった。


「向こうは人間の絵が減ったわね」


回廊の奥、より現代に近い十九世紀の絵画も飾られているが、

シーツに寝そべる裸体の絵がなくなり、銀食器やフルーツ、

風景画が主になっていた。


「ああ……うん、そうだね。

ほら、様式が変わったって解説がある」


絵を見ているはずなのに、どこか上の空だった奏は

声をかけられて我に返ったのか、ボードを見上げて読み始めた。


「あっちの絵が見たいならいいのよ、先に進んでも」


「いや、そういうわけじゃないよ。

ごめんね、ちょっと小説のこと考えてたんだ」


小声で会話しても回廊の高さでいくらかは響くが、

人も疎らでさして鑑賞の迷惑にもならないだろう。


「執筆はどう、進んでるの? 散々私に話をさせて

取材も同行してるんだから、好調でいて欲しいんだけど」


「それは大丈夫、いくらかは進んでるよ。

まだしばらくは時間がいると思うけど」


これだけ協力したのもあって、小説の完成を心待ちにしていた。


脚色はされるだろうが、本の中での

松葉はどういった結末を迎えるのだろうか。


ペンを握っている当の奏は絵画を

目に焼きつけるように見入っていた。


撮影は禁止の展示だから記憶に映していくのだろう。


松葉が少しだけ先に進むと、花のような

ピンクの裾がふわりと白い回廊の角へ消えて行った。


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