第20話 想定外のイベント発生は当然ながら心臓に悪い

 実範みのりの親戚らしき男は、初日の夜を最後に姿を見せることはなかった。姿どころか声も聞こえない。実範に尋ねようかとも思ったが、あの夜の会話から感じたとおりに不仲であれば何度も尋ねるのも申し訳ない。なにより、不自然だ。晴奈自身、どうしてあの男が気になるのかは分からない。なんとなく神秘的で、意味深長なことを言われたせいかもしれない。夏音辺りに話せば「それは恋だよ晴奈。」などと言うかもしれないが、そういうことではないのはハッキリと分かる。

 合宿最終日、この日は例年神社の掃除が主なスケジュールである。雑巾掛けやらゴミ出しやらで体力を使うので、トレーニングも兼ねていると言えば兼ねている。らしい。晴奈は合宿の期間中はほとんど似たようなことをしているが、この日ばかりは実範と共に指示出しもするので意外と忙しい。


「嘉村先輩、私たちこのゴミ袋下まで持って行きます。」

「えっ、結構重いけど大丈夫?」

「平気ですよー。行ってきますね!」


 後輩の女子、佐野美波みなみは元気よく力こぶを作るフリをして、同級生と一緒にゴミ袋を山の麓にある実範の家まで運びに行った。それを見送って、晴奈はふと、一週間自分たちが寝泊まりしていた部屋の方へと足を向けた。実範を含めた部員達の声が遠のく。こちらの方は既に掃除が終わっているのだ。

 流石に真夏。日陰であっても暑い。空調を切り、自然に吹き付ける風だけを頼りにするには厳しい季節だ。木々のざわめきと蝉の声だけしか聞こえないここに、晴奈は自分が何をしに来たのかよく分からないままでいた。忘れ物も戸締まりも確認済みのそこに、用は無いはずだ。これではサボりになってしまう、と晴奈は縁側――実範の祖母が持ってきてくれた差し入れのスイカを部員と食べた場所であり、女子部員達と語らった場所であり、初日、あの神秘的な彼が腰掛けていた辺りで、踵を返した。


「なんだ、帰るの。」

「――――!」


 後ろから聞こえた声。晴奈は思わず体を強ばらせて、ゆっくりと後ろを振り返った。そこにはやはり、実範に似た眦の男がいた。先ほどまで、確実にそこにいなかったと断言できる彼が急に現れた。心臓の音が体の外にまで響いているのではないかと錯覚するほどに大きい。彼はおかしそうに笑った。


「そんな幽霊見たような顔しなくても。食べたりしないよ。」

「あなたは一体……。」

「その内わかるかもね。で、お片付けも終わッたここに、何しにきたの?」


 晴奈自身、やっと何をしに来たのか分かった。彼に会いに来たのだ。正確に言えば、会えるかもしれないと思って来た。


「あなたに……聞きたい事があったのかもしれない……です。」

「残念だけど、今君に何か教えられるようなことはまず無いと思うんだよねぇ。」

「そうですか……。」

「あ、でも君に聞きたい事はある。あのさ……。」


 男のグレーの瞳に、わずかに優しさとも寂しさともいえない光が宿った。何かを懐かしむその表情は、やはり神秘的だ。


「前世の記憶がある子とかッて、周りにいないかね。」


 冗談か何かでは無いらしい。


「運命の人は必ずいるって信じてる……というか、自分に言い聞かせてる子ならいます。」


 これは実を言うと夏音のことである。


「そッか。変なこと聞いてごめんね。あ、君呼ばれてるよ。」


 落胆という程の表情もせず――恐らく、そもそも期待していなかったのだろう――男は頷いてから晴奈の後方を見た。確かに、同級生の男子部員が晴奈を呼ぶ声が聞こえた。


「じゃあね。早くお仲間の所に帰んな。あ、実範にはここで話したこと内緒ね。」

「え?なんで――」


 晴奈の声は、後ろから近づいてくる同級生の声に気を取られて中途半端に途切れた。一瞬、視線を外したあと、そこには誰もいなくなっていた。やはり彼は――


「嘉村さん?」

「――――、宮澤君。」

「あぁ、ここにいたんだ。どうかしたの?」

「ごめん、ちょっと……戸締まり、ちゃんとしたか不安になっちゃって。」

「真面目だなぁ。その……そういうところ、好きだよ。」

「そう?ありがとう……ん?」


 同級生、宮澤成司せいじは呆けた顔でいる晴奈にはにかんだ。


「急にこんなこと言ってごめん。その……実はずっと、生徒会も忙しいのに部活にも合宿にもちゃんと参加してるところとか、いいなって思ってて。だから、俺とお付き合いしてもらえませんか!」

「え、え……え!?」


 ただ成司は軽く褒めてくれたのかもしれない、自意識過剰かもしれない――晴奈の脳裏を巡った考えが雲散霧消する。嘉村晴奈、十七才。恋愛経験は無いに等しい。


「いや、本当に急でごめん。返事は今じゃなくてもいいっていうか、ちょっと考えてみてほしいというか……。」

「は、はい。あの、うん。ちょっと、お待ちくださいね……?」


 混乱するあまり変な敬語になっている気がする。返事は今じゃなくていい――成司の言葉に霞の深いグリーンの瞳が頭をよぎった。念のために肌身離さず持っている銀色の指輪が、ポケットの中で重くなった気がする。


「うん。待ってる。待ってるから、必ず返事をください。」

「そう、そうだよね。うん。ちゃんと、その、お返事します。」

「ありがと。ほんとに、学校始まってからとかでもいいから。……あ、あー、出雲先輩が呼んでる。俺、先行ってるね!」


 ちょっとだけ耳を赤くした成司が背を向けて足早に遠ざかる。――いつまでも先延ばしにはできない。待ってくれるとはいえ、待たせたままにしたら不誠実だ。霞にも、成司にも、しっかりと返事をしなくてはいけないのだ。


「春だねぇ。いや夏だけど。」


 どこかに消えたはずの年齢不詳・正体不明の男の声が再び聞こえた気がする。勢いよく振り返ったが、やはりそこには誰もいなかった。



●●●



「そんじゃ、これにて解散。お疲れ様でした。」

「お疲れ様でした!」


 部活は合宿を終えて普段どおりの活動へと戻るが、お盆休み期間は活動しない。つまり、ゆっくりと羽を伸ばせる期間が始まるのである。各々山を下ろうというとき、一人そのまま神社に残る実範に晴奈は声を掛けられた。


「晴奈、大丈夫?ボーッとしてるみたいだけど熱中症とかじゃない?」

「だ、だいじょぶです……。ちょっと考え事というか。」

「そう?で、本題だけど……夏祭り、着付けの時間くらいはありそうだけど、ちょっと家の事情で一緒には行けないや。」


 夏休み前、実範に頼んだことを瞬間的に思い出す。とはいえ忘れていたのが申し訳ない。そうだ、このお盆休みの期間に隣町の――この厳教みねのり神社とは別の――神社で開催される夏祭りに実範を誘って、かつ浴衣の着付けを頼んだのだ。夏音と出かけたときに某所にて浴衣を見たのがきっかけである。


「そうですか……。すみません、無理言って。着付けも忙しければ、その。」

「いいよぉ、それくらい。私も晴奈の浴衣姿見たいしさぁ。……はぁ。一緒に行きたかったなぁ。高校生最後の夏だし。」

「……来年、来年は行きましょう!それか、お祭りじゃなくても実範先輩の予定の合う日にどこか、遊びに!」


 実範はキョトンとした。思えばこの二年の付き合いになる先輩と、休日に遊ぶために顔を合わせたことはないのだ。来年、彼女はもう高校生じゃない。まだ目の前に実範はいるのに、すぐにでもどこかへ消えてしまうような気がした。だから、晴奈は思わず言っていたのだ。実範はやがて彼女にしては珍しい程ハッキリと破顔して、うん、と頷いた。


「約束ね。夏音ちゃんにも声かけて行こうか。私の知らない晴奈の話が聞けそうだし。」

「えぇっ!?それはちょっと恥ずかしい気が……!」

「いいじゃないの。ふふ、かわいい。それじゃ、気をつけて帰りなさいね。」


 なんとなくからかわれた気がしつつも、はい、と共に頭を下げて晴奈はその場を去る。そういえば実範はやはりあの神出鬼没の男性のことを一切話に出さなかった。晴奈が尋ねることも結局なかった。最終的に他のことに気を取られてそれどころではなくなってしまったので、ひとまずは保留である。霞との契約、成司の告白――どちらも必ず近いうちに返事をしようと心に決めはしたものの軽々に決めて良いとも思えないから、ひとまずは悩み事はその二つに絞ることにした。その二つだけで手一杯だ。


「あ、晴奈ちゃん。合宿お疲れ。」

「!――おばあちゃん。お世話になりました。」


 山の麓で声を掛けてきたのは麓の家に住む実範の祖母であった。見るからに優しそうな彼女は、にこにこと人好きのする笑顔で「悩み事?」と言った。血筋だろうか。出雲家は勘が鋭い。苦笑いで頷くと、うんうんと頷き返された。


「若い頃は悩むもんだよ、いろいろ。まぁでもそういうのは大抵若い内にしかできない悩み事だからねぇ。いっぱい悩んどきなね。」


 何も言わなくともわかると言いたげな顔で、実際分かっているのかもしれない口ぶりで彼女は言う。


「あ、恋の悩みならいつでも上の神社にお参りにおいで。」

「えっ。」

「厳教神社の神様はね、豊穣の神様だとか勉学の神様だとかっていうのが有名だけど、実は縁結びの神様でもあるんだよ。」

「そうなんですか!?知らなかった……。」

「なんでも神様はたった一人の女性をそりゃあもう真剣に大事にしててね、あんまりの仲睦まじさに、周りが皆笑顔になったって話が残っててねぇ。」


 どっちかっていうと夫婦円満の方が近いかねぇ、と彼女は笑った。


「今度お友達でも連れておいで。スイカでも切ってあげようね。」

「ぜひ!じゃあ、私はこれで。ありがとうございました。」


 実範の祖母の話に晴奈は妙に納得していた。晴奈にとって異性からの告白イベントなどというものは絶対に縁の無いものだと思っていたのだ。誰かに愛されるだとか、求められるだとか、そういうことがまるで想像できないし、想像するだけでなんだか恥ずかしい気持ちになる。だから、縁結びの神様がいる神社にいたからこその出来事だったのだとひとまずは思い込む。成司の気持ちを疑うようなことは、決してないけれど。

 見上げた昼下がりの空はよく晴れて、入道雲が一層の夏らしさを演出している。帰ったらとりあえず、しょぼくれているであろうかしゅみとおやつを食べようと晴奈は決めた。

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