第19話 先輩が霊感あるってウワサを今だけ忘れたい
キャラメルを取り落としたプリン頭は口を開けたままカスミを見上げている。
「君本当に悪魔?」
「イイコすぎて天使になるんじゃねーの?」
マスターは揶揄するもやはり口元が引きつっている。それらを気にした様子も無くカスミはハニーミルクを一口飲んだ。
「誰が天使なんかになるか。カスミ君は心優しく慈悲深い悪魔だってだけですよ。自分で言ってても変だと思うけど。」
「仮契約した時点で欲望とか高揚感とか、大変なことになるって聞いたけど……よく抑えられてるね?」
「カスミ君、優秀なので。……冗談はともかく、正直衝動を抑え込むので精一杯だよ。普段は幼生体でいることで無理矢理自分で行動を封じてる。」
涼しい店内で温かい飲み物を摂取するのはどうしてこんなにも心が和らぐのか。実際の所、カスミの精神はギリギリを保っていた。ギリギリ晴奈に本契約を迫らずにいられる。こんなことならあの時、すぐに仮契約を破棄させて一ヶ月干からびて寝込んでいた方がマシだったような気さえしてくる。どんなに食事をしても満たされることのない食欲を常に腹で飼っているような感覚だった。ある意味で晴奈が合宿とやらに出かけてくれて助かったとすら思う。
「まったく、人間と一緒に生活してるってだけでもビックリなのに、まさかここまで入れ込んでるとはね。」
「まぁ習性の部分もあるしな。……にしたってこんなに忍耐力ねーよ普通は。そんなに大事かね。」
「大事だよ。」
即答。
「んで?そんな大事な子をほっぽって何しにきたの。」
「聞きたい事があって。……俺たちを討伐するために投入された神官、どんな奴が来てるのかわかる?」
「まず奴らと出くわさないように生きてんだぞ?そんなもん分かるわけないだろ。」
「そりゃそうかぁ。」
対策の一つも立てられれば良かったんだけど、と嘆く。そんな彼の傍らで「あぁ」と何かを思い出したような声がした。発生源は目つきの悪い男である。意外と垂れ気味の眦をやっとカスミに向けた。赤茶色のような、橙に近いような瞳が不愉快そうに細められた。もっともその不愉快はカスミに向けられたものではないようだが。
「ついこの間一人、厄介な奴を見かけた。」
「お前いつの間に外出たの。」
「いつでもいいだろう。心配されるほど弱くもない。……とはいえ見かけたのは神官ではなく天使だがな。」
「知ってる奴?」
「ああ。現存する天使の中では相当古株だな。アレが問題というよりは、確か奴が今契約しているのは教団でも上層部の神官なはずだ。」
「上層部……。」
下っ端だけで厄介者を処理しに来ているわけではないということだ。以前カスミが気配を探知した神官も実力が測れない。思っていたよりも、晴奈を護りきるのは難しいのかもしれない。なにせ悪魔にとって神官と天使――教団に属する生き物は皆一様に非情だ。悪性生物にかける慈悲などないのだろう。
「その天使、髪の色は?」
「茶髪。」
「じゃあ俺が一番警戒してるのとは違うのか。……わかったよ、ありがとう。」
「――カスミ。」
温くなったハニーミルクを一気に呷るカスミに、マスターが険しい顔で呼びかける。それは咎める声ではなく、心から案じている声だ。先ほどまで茶々を入れたりからかったりと、どこか軽薄そうにしていた様子は鳴りを潜めた。
「お前は本当に不本意だろうが、俺たちにとってお前は新天地への可能性の扉を開いた英雄だ。」
「……急に褒めないでよマスター。照れんじゃん。」
「……本当に感謝してる。だが、ここでもいずれ俺たちは戦わなきゃいけない。」
「……。そうだね。」
「その役目を一人で背負い込もうとするなよ。きちんと仲間――なんて言うと薄ら寒いか……同族を頼れよ。」
カスミは思わず吹き出した。面倒見のいい年長者であることは知っていたが、ここまでとは。
「背負い込むなんてしないよ!俺平和に生きたいし!……勝手にやらかしたことで勝手に感謝されて、やばくなったら助けてもらえるなんてお得だなぁ。」
カップを置いてカスミは立ち上がる。――あぁ、来て良かった。心からそう思う。仮契約の反動が和らぐことはないが、それでも軽くなった気さえする。今、カスミは孤独ではないのだ。一度は背を向けたその場の面々を振り返ってウィンクをひとつ。
「死にそうになったらラブコールするから。よろしくねっ。」
「もうちょっと早く呼べよ。」
「着く頃には死んでそうだな。」
「どっちみち僕めんどいからパス。」
「君らさぁ。」
店内には、しばし笑い声が響いた。
●●●
その夜。カスミが再びかしゅみとして弁当箱の中でウトウトしている頃。晴奈は実範の家――
――迷ッてるなんて言ッて実際には心はもう決まッてることがほとんどだ。少なくとも傾いちゃいるだろう。
彼は他にも晴奈に言葉を投げかけたが、晴奈が一番覚えているのはここだった。そう、実際傾いてはいる。晴奈の心はすでに半ば、カスミと契約する方向で考えている。しかし次の問題はそれに伴う「お願い事」を決めるという部分だ。魔法によって叶えてもらえるお願い事――晴奈は欲の無い人間ではない。しかし、悪魔に頼んででも叶えたい願望を持つほど欲深くない。名前も知らない虫の鳴き声が静かに聞こえる和室で、晴奈はもう何度も寝返りを打っていた。
(そういえば、実範先輩遅いな。)
合宿の間、晴奈と実範、そして数人の女子部員は同じ部屋を寝室として使う。他の部員が寝息を立てる中、実範の布団は空だった。やることがあるから先に寝ているようにと部屋を出て行ったのはもう一時間は前。晴奈はその間、ずっとごろごろと堂々巡りの頭を枕の上で転がしていただけだった。なんだかやるせなくなって、一度体を起こす。顔でも洗ってこよう、と思って晴奈はそのまま立ち上がった。意外と言っては失礼だが、古風な建物の割に室内は空調が整っているので、真夏にも関わらずさほど汗もかいていない。それでも、少しでもさっぱりとしたい気分だったのだ。
そんなわけで手洗い場に足を踏み入れたとき、外から話し声がした。夏、古風な建物、静かな夜――この状況で、背筋が寒くならないわけがない。ただ、すぐに話し声の片方が聞き慣れたものであると気付いた。
「勝手に出てきていいなんて言ったっけ?」
実範だ。彼女の声は、普段のゆったりと構えた様子からは想像もできないほど険しさを滲ませていた。
「いいじゃないの。減るもんでもなし。」
咎められた方はどこ吹く風。つい最近聞いたような気がする男の声――恐らく、昼間あったあの神秘的な年齢不詳の男性だろう。夕食のときにそれとなく彼のことを実範に尋ねたときは、驚いた顔をした後で晴奈の予想どおり親戚だと言っていたが、仲が良くないのだろうか。
「何しにきたの?」
「何ッて。かわいい子探しに?」
「アンタね……。」
苛立ちと呆れ。実範は最後にもういい、と言ってその場を離れていった。結果的に少しとはいえ立ち聞きしてしまったせいで居心地が悪い。晴奈は当初の目的どおり顔を洗うことにした。
「……?」
手洗い場は、洗面台の脇に明かり取りと換気を兼ねた小窓があった。小さな窓ではあるが、外が見える。ちょうど実範がいたであろう位置にはもう誰もいない。話していた相手もいない。――足音は、実範のものしか聞こえなかった気がする。先ほどすっかり消えたと思った寒気がぶりかえした。
(気のせいだよね。足音立てずに歩くタイプの人かもしれないし。)
ぱしゃ、と顔に水を掛けて、タオルで拭き取る。晴奈は足早にその場を去るのだった。
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