第18話 余計に悩みを増やしていくな

「はるちゃん、かしゅみね、だいじなゆびわひとつなくしちゃった……。」

「あれは無くしちゃうと困るからって私に預けたんだよ。忘れちゃった?」

「そうだっけぇ。」


 あれからというもの、かしゅみはどこか遠くを見ていることが増えた。寝ていることも増えた。目覚めると真っ先に指輪を無くしてしまったと慌てる。どう見ても普通ではない。それから、動き回ることも減って、晴奈が外から帰ってきても出迎えてくれない。寂しい。あのもちもちと家の中を意外と俊敏に走り回っていた姿が既に恋しい。

 考えられる原因としては、やはり仮契約だろう。契約を断れば干からびて寝込むと言っていたが、もしかしたら仮契約の状態で放置するのも妖精――もとい、悪魔にとっては負担になるのかもしれない。とはいえ今すぐに契約する気はなく、叶えてやると言われたお願い事も思いつかない。かしゅみには元気でいてほしいが、決断はまだできない。そんな中――晴奈は今日、合宿のために実範みのりの家、厳教みねのり神社に来ていた。弓道場からは少し離れた日本家屋の縁側のそばで洗ったタオルを干している。


「……何にしても、早く決めた方がいいよね。」


 ぽつりと物干し竿に干し終わったタオルを眺めて呟く。大きなかしゅみ――カスミと名乗ったあの青年は自分に一切関わらない方が安全だと言っていたが、晴奈にとってかしゅみはもう生活の一部だ。いなくなると、絶対に寂しい。しかし――彼が護るとは言うものの、当然身の危険などというものは一つでも少ない方がいいに決まっている。そこが引っかかって晴奈はお願い事を考える段階に踏み込めない。臆病だ、と人知れず肩を落とした。




「何か悩み事かな?」




 急に響いた自分以外の声に勢いよく顔を上げ、素早く周囲に視線を巡らせる。――縁側に、男が一人腰掛けていた。気配どころか足音にも気付かなかった。はじめからずっと、それこそ晴奈よりも先にそこにいたかのように座っている。和服を自然に着こなす彼の、少しだけ外に跳ねるクセのある髪と気だるげな眦に晴奈は見覚えがあった。実範に似ているのだ。実範の親戚か、少なくとも神社の関係者なのだろうと結論づける。


「えっと……はい、その。早いところ決めた方がいいんだろうけど、なかなか決断できないというか。」

「なるほどねぇ……。まァ、よくある話だね。」


 どこか面白がるような、曖昧な表情。男は若そうに見えるが、いやに雰囲気が老成しているせいでまるで年齢が予測できない。年齢不詳の彼は縁側に腰掛けたまま目を細めて薄い唇を開く。その表情はやはり曖昧で、晴奈は妙な居心地の悪さに苛まれた。


「でも、そういうのは往々にしてなるようにしかならない。それに、迷ッてるなんて言ッて実際には心はもう決まッてることがほとんどだ。少なくとも傾いちゃいるだろう。あとは、その決断は今したんだッて思い込む瞬間がいつ訪れるか。」

「あの、どういう意味ですか。」

「あァ、ごめんごめん。その内……それこそその時に、きッと分かるだろうさ。」


 やはり神社関係者なのだろうか――晴奈がそんなふうに思って見ていると、やっと年齢不詳の男はわかりやすく笑った。


「なに、お節介だよ。そう深く考えることでもない。」

「はぁ。」

「そうだ。お節介ついでにもう一つ、助言を。――君、悪いモノとはく縁を切るに限るよ。」


 夏の日差しが、陰る。男の顔にも影が落ちた。その影の中で、瞳だけが一瞬グレーに輝いたような気がした。


「情愛をうそぶく唇に騙されてはならない。約束を持ち出す指先に触れてはならない。欲望を映す瞳を、見つめてはならない。」

「…………。」

「君がもう決断してしまッたのなら、こんな助言はもう遅いかもわからんがね。」


 雲が流れ、再び熱光線が降り注ぐ。男はそれと共に立ち上がった。晴奈は自分の呼吸が浅くなっていたことに今更気付いて、大きく息を吸う。


「まァ、もしも悪縁なんてバッサリ捨ててしまいたい、と思ッたら実範に相談してね。」

「……やっぱり、実範先輩のご親戚なんですか?」

「んー、そんなとこだね。じゃ、僕はこれで。」


 男は現れた時と同じように唐突に去って行った。今度は足音も聞こえる。やはり思考に集中していただけなのか、と晴奈は首を傾げる。意味深長な話をした彼は、すでに今回の合宿において寝泊まりする場所となっている家屋の奥の方へと姿を消していた。


「あ……。名前聞くの忘れた。」


 ついでに名乗るのも忘れた――なんとなくすっきりしないまま、晴奈は洗濯カゴを抱え上げるのだった。




●●●




 晴奈が厳教神社で年齢不詳の男に話しかけられる、その少し前。かしゅみはというと、ある場所へ向かっていた。もちもち、よろよろ、とその足取りは覚束ない。「カフェ&バー ミラージュ」と少々古めかしい看板が出されているそこの、ドアの脇。そこにはもう一つ小さなドアがあった。ちょうどかしゅみが通れる程度の小さなそれは、まさしくかしゅみのような生き物がくぐるために用意されたものである。大きなほうの扉に付いているようなベルが鳴らない代わりに、申し訳程度にくっつけてある鈴がチリン、と来客を店内に知らせる。


「いらっしゃい。お、かしゅみだ。」

「相変わらずチビだな。」

「……。」

「あれ、言い返しても来ないなんて。元気無いねー。どしたー?」


 次々に投げかけられる声。かしゅみは黙って体を一瞬にして霧へと変化させる。そして次にその霧が一点に集中すると、そこには先日晴奈の前に現れた緑の瞳の青年、カスミが現れた。


「チビじゃありませんけど?」

「まずそこかよ。」


 ハニーミルク、と言いながらカスミは不機嫌に椅子を引いて座る。カウンターにいた晴奈と同い年くらいの中性的な少女がビク、と肩を小さく跳ねさせるのが視界に映って、カスミは小さく謝罪した。マスターはヒュウ、と口笛を吹く。


「随分紳士じゃねーか。」

「俺は元々心優しい紳士ですー。……はぁ。」

「なんかあったか?って見りゃわかるか。仮契約のまま放置なんて、酷いゴシュジンサマだな。」

「あの子のことを悪く言わないでよね。」


 じ、と軽く睨むとマスターは数回目を瞬かせた。そのまま「今の聞いた?」とカスミから一席空けて座っている、かしゅみをチビと言った少々目つきの悪い男を振り向く。男は鼻で笑った。


「人間と契約してわざわざ首輪つけられに行くなんて、どうしたらそんなことする気になるの?」


 カウンターテーブルの上には妖精――の、姿をしたプリンカラーな頭の悪魔の幼生体が一匹。キャラメルを抱えて不思議そうにカスミを見上げている。


「お前はもう人間と契約して痛い目を見ている。それでもなお人間なんぞと仲良くする理由はオレも知りたいところだな。」


 いかにもブラックコーヒーとタバコが似合いそうな目つきの悪い男は、ホワイトチョコレートを口に放り込みながら無感動に言った。ちなみにカスミの方を見向きもしない。


「……そりゃ、俺だってもう人間と契約する気なんて無かったよ。仮契約自体事故みたいなモンだったし。」

「は?そうなの?」

「そうだよ。まぁ俺の幼生体カワイイから?チューしたくなっちゃうのもまぁ仕方ないんだけど。」

「くだらん。結論を言え。」

「ほんっと短気!……俺が、捜し物してるのは前に話したよね。」


 マスターが頷く。カスミの地球侵略の目的において、晴奈には明かさなかった点はこれ一つだった。地球を支配してしまえば捜し物もしやすくなるだろうという考えである。


「まったく、気の遠くなる話だよ。あんなモン探し続けるなんて。」

「悪魔の習性じゃん。」

「そりゃそうだが。理由、それだけか?」

「どうだろうね。」


 静かにマスターが温かいハニーミルクをカスミの前に差し出す。それを手のひらで包んで、カスミはうなだれた。


「とにかく、それさえ見つかればあとは見守るだけで良かったんだ。……それが、たまたまた俺を拾った人間がお目当てを持ってるなんて思わないじゃん。しかも仮契約しちゃったし。」

「あー、それで。仮契約したら捜し物の持ち主だってわかって、一緒にいたくなっちゃったわけだね?」

「それもあるけど……俺と関わったどころか仮契約したことがあるなんて、どんなに俺が気配やら痕跡やら消しても神官どもは嗅ぎつけそうだから。」


 再び、目つきの悪い男が鼻で笑った。


「神官どもに何をされるかわからなくて一緒にいなければ心配だと。」

「あの子イイコだから、普通に一緒にいたいのも本当だけどね。まず第一に思ったのはそっちだし。契約破棄されてもバレないようにそばにいるつもりではいるけど、どうせなら契約して真正面から護る方が比較的安心だから。」


 晴奈は善良な女子高生だ。本来その生活が脅かされてはならない。平穏に生きて欲しいと心から思う。それなのに自分のせいでその日常が壊されるなどあってはならない。


「それなら適当に願い事考えさせて契約させればいい。」

「そーだよ、カスミくん魅了は結構得意な方だったよね?なんでやらないの?」

「簡単なことだよ。騙したりしたくないだけ。」


 こともなげに、だが本心から言うカスミに、プリン頭の幼生体はキャラメルを取り落とした。

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