第四十六章  百合

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 すれ違ったメイドに林檎の部屋を聞き、私は駆け足で向かった。彼女の部屋のドアを軽く拳で打つと、太刀川まゆが顔を出した。


「どうされました?」

「あ、林檎さんの様子を見に。ちょっと心配になって」


 私がそう言うと、まゆはさっと脇に逸れた。


「ああ、どうぞお入りください」


 林檎の部屋は意外にも今風のすっきりとした空間だった。広さは十畳ほどだろうか。テレビ、小型の冷蔵庫、ソファーに本棚などが場の調和を乱すことなく配置されている。

 お嬢様が高貴な日常を送る部屋なのだから、天蓋付きのベッドやピアノなどがあるこてこてとした部屋を想像していたので、私は一瞬入る部屋を間違えたかと思ってしまった。


「本当に白骨死体が出てきたんですか?」


 まゆは口にするのも恐ろしいというように、顔を強張らせて言った。


「はい。見たところ女性のもののようでしたよ」

「すごい臭いがしましたよね。私、気持ち悪くってさっき吐いてきちゃいました。死体が埋まってるなんて、このお屋敷で働くのよそうかしら」


 まゆは心底不快そうに顔をしかめて胸を押さえた。愚痴に付き合っている暇はないので、私は訊くべきことをさっさと訊いた。


「ええと、林檎さんはどちらに?」


 見渡した限りでは、室内に林檎の姿は確認できない。


「お嬢様は寝室の方で休まれています。たいそう驚いた様子で、寝込んでいらっしゃいます」


 言ってまゆは奥の扉を見やった。


 林檎の部屋は二間構成になっているようだ。

 私がそちらに足を向けた。

 寝室に入ると、まず目に飛び込んできたのは右手奥にある大きなベッドだった。三人は余裕をもって横になれるサイズのベッドに、林檎が身を横たえていた。そのそばに二人の女の使用人が心配そうな面持ちで立っている。一人は高石旗子だった。


「具合はどうですか?」


 私が声をかけると、林檎はゆっくり体を起こした。


「あら、楓先生」


 彼女はにっこりと微笑んだ。顔色は優れないが、思っていたより元気そうだ。

 私は二人の使用人の横をすり抜けて、林檎の許へ向かった。その際、旗子の付けている薔薇の香水のつんとした甘ったるい匂いが鼻孔に侵入し、私は心の中で顔をしかめた。


「こんな情けない姿をお見せしてしまい申し訳ありません。あのようなものを目にしたのは、これが初めての経験ですので」


 言いながら林檎はさりげなく左胸に手を当てた。彼女は八年前に心臓の手術を行っているというから、先ほどのような体験は心臓に負担がかかるのかもしれない。


「もう大丈夫です。まだ少しだけドキドキしていますが……」

「ゆっくり休んでください。誰だってあんな死体を突然見せられたらびっくりするに決まってます」


「ありがとうございます。皆さん、もう私は大丈夫です。ちょっと楓先生と二人きりにさせていただけますか」


 林檎がそう言うと、ベッドのそばにいた使用人たちは部屋を出て行った。

 それを見届けてから、林檎は何か思い立ったように両手をパンと合わせると、そろそろとベッドから下りた。戸口の両脇には本棚があり、彼女は向かって右側の棚に歩み寄った。


「先生、ちょっとこちらにいらしてくださいますか」

「なんですか?」


 私が隣に立つと、彼女は無邪気な笑顔を見せて本棚の中ほどの一角を指で示した。


「先生の本はほら、ここに全巻あります。全部初版ですの」

「あ、どうも、ありがとうございます」


「それでですね、ここにある先生の作品にサインを頂けたらなって。お願いしてもよろしいでしょうか」

「お安い御用ですよ。私なんかのサインでよければ」


 実は作家になってから人にサインを書いたことは数えるくらいしかないので、サインをせがまれたことに私は天にも昇るような幸せを感じた。


「ではちょっとペンを持ってきます。少々お待ちください」


 林檎がぱたぱたと隣りの部屋に入っていく。


 待っている間手持ち無沙汰になったので、私は改めてこの部屋を見回すことにした。お行儀が悪いけれど、こういう機会がなければこんな大豪邸のお嬢様の部屋なんて入ることはできない。

 左手にはガラス張りのシャワールームがあり、右手には天井まで届きそうな巨大なクローゼットが鎮座していた。いつか私もこんな豪奢な部屋で生活を送りたいものだ。そのためには、どんどん作品を書いてばんばん売れなくては。


 ベッドの横の本棚の真上には額縁に収まった百合の花の絵がかけられていた。


「百合……百合!」


 私は光に引き寄せられる虫のようにその絵の前まで足を運んだ。

 黒一色に塗りつぶされた背景。その中央に一輪の白い百合が咲いている。


 これは何かの暗合だろうか。


 八年前、百合という女性が死んだと思われることと、この部屋に百合の花の絵が飾られていること……

 さらに私はその絵の下に折り紙で折られた百合の花が飾られていることに気づいた。


 百合。


 偶然の一致にしては、出来過ぎている気がした。林檎に問い質してみるべきか。彼女は作家としての私を慕っている。私になら、真実を話してくれるかもしれない。

 視線を下に写すと、本棚の上に写真立てがあるのを発見した。

 そこに収められている写真を目にした瞬間、私は全身の肌が粟立ち、目の前が真っ白になるような感覚に襲われた。今しがた考えていた林檎からの聞き取りのことなど、あっという間にかき消されてしまった。


「な、なんで? どうして……」


 その写真の被写体は二人の少女だった。


 どこかの池が背景となっている。


 一人は小学校低学年ほどの幼い少女である。そしてもう一人は――


















「百合!」













 私は叫んだ。写真の中の少女に向かって。


 どういうことだ。


 なぜ彼女の写真がここにある。


 もう一人の被写体は、私の親友、灰谷百合その人だった。





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