第四十七章  偶然だよね

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 それからのことはあまり記憶にない。遅れてきた林檎からペンを受け取り、私の著書に片っ端からサインを書き入れたような気がする。その後彼女の部屋を後にして、足の向くまま八神邸を歩いたようだ。


 気がつくと、私は食堂にいた。


 誰もいない。


 広い空間にぽつねんと佇みながら、私は混乱しきった頭を整理しようと努力した。しかし、あまりの衝撃に私の脳みそは満足には働かなかった。


「百合が……この屋敷にいた?」


 先ほど目にした写真の中の百合は、記憶の中の百合とほとんど変わりなかった。あか抜けない見た目、純真な瞳、華奢な体つき……

 おそらく彼女が中学生の時に写したものだろう。となると、あの写真は七、八年近く前のものだと思われる。

 そして、これまで得たいくつもの情報が、その時期、この屋敷で殺人事件が起きたことを示唆している。


 八年前の使用人の総入れ替え。


 壁の中から発掘された白骨死体。


 石田友起が許しを請った百合という女。


 百合という言葉に反応し、記憶の一部を取り戻した元使用人。


 灰谷百合が写された写真……


「嘘よ」


 私は無意識のうちに言葉を発していた。


 残酷な想像が脳内を埋め尽くす。


「嘘だ」


 そんな馬鹿なことがあるだろうか。


「信じない」


 その想像は憎たらしいまでのリアリティを伴っていた。


 灰谷百合がこの屋敷で殺されたなんて、私は絶対に信じない。


   *


「楓」


 姉の声で私は目を覚ました。まぶたが腫れぼったい。どうやら泣きながら眠ってしまったようだ。頭の奥で鈍痛がする。最悪の目覚めだった。


「お姉ちゃん?」


 梢はどこか安堵したふうに顔を緩ませていた。


「明雄が吐いた。ようやく八年前の事件の全容が明るみに出たよ」


 全身に緊張が走った。


 私はすでに最悪のストーリーを脳内で描いてしまっている。できれば、それは私の脳が見せた悪夢であって欲しかった。

 旧友の写真を発見したことも夢が見せた幻であって欲しかった。しかし、梢が語ったことは私の描き出したストーリーとほとんど変わらぬ内容だった。

 梢は私の向かいに腰を下ろし、明雄から聞き出したという話を淡々と語り始めた。


「八年前、一人の少女が死んだ。少女の名は灰谷百合。彼女は、八神勇心が愛人に産ませた子で、八神勇心は長年放置していた彼女を二〇〇七年の秋に引き取った。当時七歳だった八神林檎は彼女を姉として慕い、百合も腹違いの妹を心から愛していたそうだ」




「……やめてよ」




「当時、八神林檎は拡張型心筋症という重い心臓病を患っていた。これは難病に指定されていて、確実な治療方法は心臓移植しかなかった。しかし国内で移植手術を確実に受けられる保証はなく、海外で移植手術を受けようにも当時ヤガミグループの製品を使った手術で医療事故が起きたため、海外の著名な病院はヤガミグループを目の敵にしていたそうだ。そんな事情があったから、海外での移植手術も絶望的だった」




「お願い、やめて」




「二〇〇九年の九月、灰谷百合が突然死した。明雄は詳しい死因までは聞かされていなかったそうだが、おそらく殺されたんだろう。林檎の移植手術に必要な心臓を手に入れるために。勇心が百合を引き取ったのも、最初から彼女の心臓が欲しかったからだと思われる。こうして移植可能な心臓を手に入れた勇心は、林檎を息のかかった神戸の病院に移し、手術を受けさせた。八神明雄は帰国した日の夜、八神勇心に呼び出されてこの秘密を告白されたそうだ。これを知っているのは現在では明雄と百合の偶然の死に関わった数人の使用人たちだけのようだ。石田友起もこの一人だったと考えられる」




「やめてっ」




 私は感情をむき出しにして叫んだ。


「あの壁の中の白骨死体はおそらく灰谷百合のものだろう。遺体の隠蔽に困った勇心が確実に隠し通せる場所としてあの地下室を選んだんだと思う。百合の遺体をどうやって処理したか、までは明雄は聞かされていなかったらしい。その後使用人全員に暇を出し、事情を知る使用人には高い口止め料を払ってこの事件を闇に葬った」


「もうやめて、聞きたくない」


「うん? どうしたのさ。あんたちょっと変よ」


 梢は訝しげなまなざしで私を見つめた。


「たしかに胸糞悪い話だけど、これが八神家の抱えた秘密であり、今回の事件のになっていることはもう疑いようがない。警察連中は大混乱に陥ってるよ。明らかにどでかいと判る地雷を発掘しちまったんだからね」


 彼女は煙草を口の端でくわえた。


「お姉ちゃん、私……見つけたの」


「何を」


「灰谷百合の写真を」


「どこで」


「林檎さんの部屋で」


「そう……」


「ずっと昔、私がまだ中学生だった頃、ようやく推理小説仲間ができたって喜んでたの、憶えてる?」


「うっすらとね」


「その子ね、静岡に引っ越したの」


 黙したまま、梢は煙草に火を点けた。


「その子は家で虐待を受けてて、学校では友達もいなかった。ずっと教室の隅で本を読んでて、誰とも関わろうとしない子だった。とっても、おとなしい子だった」


「……」


「私はその子のこと、実はずっと気になってた。推理小説に興味があるのかなって、もしかしたら初めての推理小説友達ができるかもって。こっそりその子が読んでた本のタイトルを盗み見たりして、どんな本を読んでるのか調べたりもした。『推理小説に興味ある?』って直接聞けばいいのに、なかなか勇気が出なかった。でも偶然、その子と二人きりになる機会があって、私たちは友達になったの」


 私はこんな時にいったい何を話しているのだろう。自分で自分が抑えきれなかった。


 胸の内で燃え上がるこの感情を吐き出してしまわなければ、どうにかなってしまいそうだった。


「とても楽しかった。その子は推理小説を気持ち悪がることなく、興味を持ってくれた。でも楽しい時間はすぐに終わっちゃった」


 百合の叔母によって一方的に打ち切られたあの電話を思い出し、私は怒りに震えた。


「さっきも言ったけど、その子は静岡に引っ越したの。二〇〇七年の秋のことだった」


「……」


「その子の名前ね、灰谷百合っていうの。ねえ、お姉ちゃん」


 私は不安定な視線を姉に投げつけた。


「これって偶然だよね?」



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