第四十五章  死の香り

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 狭く、暗い地下室に、人々の悲鳴が響き渡る。


 泉の言っていたことは正しかった。壁の向こう側に、本当に遺体があった。私は体を起こし、胸が悪くなる臭気に耐えながら穴に近づいて眼下の遺体を見下ろした。


 かさかさになった茶色っぽい髪が頭部にへばりついている。髪はかなり長い。やはり女の死体のようだった。

 遺体が身に着けている衣服も、最初は薄汚れたぼろくずにしか見えなかったが、年月の経過を差し引いて考えれば、かなり上等なワンピースだったと思われる。

 すっかり肉を失った無表情の髑髏。その落ち窪んだ双眸を見つめていると、心がざわめいた。


 これが、八年前に殺された百合という女?


「うわああぁ」


 すぐ後ろからことさら大きな悲鳴が聞こえた。明雄のものだ。


「いったい、なんだ? これはどういう……」


 彼の表情には明らかな困惑と恐怖が見て取れる。その反応は初めてこの遺体を目にした私たちとほとんど大差ない。彼はここに遺体が埋まっていることを知らなかったのだろうか。


「皆さん、直ちにこの部屋から出てください」


 本宮が大声で叫んだ。


「遺体には手を触れぬよう、早く」











「何の騒ぎですか?」










 小鳥がさえずるような声が戸口から聞こえ、そのあまりの清らかな響きに場の混乱が鎮まった。

 全員の視線が声の主に突き刺さる。戸口に三人の女がいた。

 死臭に鼻を押さえながら、太刀川まゆと高石旗子は恐ろしいものを見るような目つきでこちらを凝視していた。その間に立った八神林檎は、この混乱を意にも介さない毅然としたまなざしを私たちに送っていた。


「いったい何が起きたのですか。すごい音が聞こえましたけれど」


 こんな状況でも林檎の美しさは健在だった。怪訝そうに首を傾げる動作、切ない声色、返事を求めるひたむきな瞳、全てが魅力的だった。


「そ、それは……」


 こんなおぞましい遺体を林檎に見せてはいけない。私は勝手にそんな強迫観念に支配されていた。彼女の美しさとは、混じりけのない白なのだ。汚れを知らないからこそ、彼女はこんなにも美しい。


「その先に何かあるのですね」

「知りたければ、ご覧になってください」


 梢は何か悪だくみをしているように不敵な笑みを浮かべて言った。


「穴、ですか」


 林檎は迷いのない足取りで穴に向かっていった。


「ああ、ダメ、ダメですよ。見ちゃダメ。後悔しますから」


 私は彼女の前に立ちはだかった。


「先生、どうしてですか?」

「あれは子供が見ていいものじゃありません。だってあそこには――」


「楓!」


 鼓膜が割れんばかりの怒声が私の耳元で鳴った。まるで雷が耳に落ちたような衝撃を受け、私は反射的に飛び上がった。


「お、お姉ちゃん?」


 梢だった。姉はいつの間にか私の隣まで近づいていた。


「通してあげな。彼女だって八神家の関係者なんだ。見る権利も義務もある。さ、林檎さん、どうぞご覧になってください」

「は、はい」


 林檎は私の横をすり抜けて例の穴のすぐ手前まで歩いた。穴に顔を近づけ、探るように中を覗き込む。


「何か、ありますか? 暗くて見れませんけれど」

「本宮さん、明かりを」


「は、はい」


 本宮が林檎の後ろに立ち、懐中電灯で内部を照らした。そうして、再びあの遺体が闇から顔を出す。


「きゃああ」


 絞るような声が林檎の口から漏れた。


「な、な……」


「この地下室の壁がなぜゆえか塞がれていたので、たった今崩したのです。この遺体はその中から発見されました。この死体について、何かご存知ですか?」


 顔面蒼白になりながら、林檎はよろよろと後ずさった。そんな姿も美しい。


「こ、こんなものが、いったいどうしてこの家に……」

「それは私たちが知りたいことです。林檎さん、本当にこの死体が誰なのか、心当たりはないのですね?」


「は、はい」

「判りました。ではもう出ましょう。服に臭いがついたらたまらない」


 そうして私たちは新鮮な空気を求めるように階段を駆け上った。本宮が階段の前に立ち、地下室は警察がやって来るまで封鎖されることになった。


 警察はそれから三十分後に到着し、白骨死体は無事運び出された。


「いったい何が起こっとるのですか」


 禿頭を両手で抱えながら一乗寺警部が呻いた。

 場所は食堂。

 一乗寺はテーブルの前を行ったり来たりしながら思考をまとめようとしていた。


「あんなものがこの家に地下に隠されていたとは。なるほど、やはり使用人の入れ替えは梢さんの指摘通り、かつてこの屋敷で起きた事件を隠蔽する目的で行われたようですね。そしてその事件とはまさしく、あの白骨死体の殺害事件にほかならない。そして、その人物こそが、石田友起の日記に書き記されていた百合という謎の女性……ふーむ」


「あの白骨死体については誰も口を割りませんか?」


 梢が訊く。


「ええ。百合、という女についても確認しましたが、心当たりのある者はおりませんでした。皆あの死体を目にしたショックで口が堅くなっておりましてね、じっくり時間をかけて聞き出せば何か吐くかもしれませんが。心神が回復するのを待ってから、もう一度聞き取りを行う予定です」


「あの、ちょっといいですか?」


 私は手を挙げて発言の許可を求めた。一乗寺は足を止めて私に向き直る。


「何でしょうか?」


「あの、さっき明雄さんがあの死体を発見した時、あの人は本心から驚いているように見えました。だから彼は遺体が埋まっていることを知らなかったんじゃないかと思います」

「しかし、八神明雄は八年前の事件についてはおそらく事情を知っている」


 梢が言った。


「だから、地下室の白骨遺体と八年前の事件はだとは考えられないかな?」

「無関係ねぇ。となると、この屋敷では二つの事件がひそかに闇に葬られたわけだ」

「しかし、あの白骨遺体は死後七、八年は優に経過しているでしょうから、時期的には一致すると思いますが」


 一乗寺がそろりと言った。


「八年前の事件の全ての事情について、明雄が知らなかっただけなのかもしれない。とにかく、八年前の事件については明雄を崩すことが最優先でしょう。楓、どこ行くの?」


「ちょっと林檎さんのところに行ってくるね。心配だから」


 私は席を立った。


 あのような恐ろしい死体を直に目の当たりにして、林檎のような繊細な女性がショックを受けていないわけがない。きっと彼女の精神は強烈な打撃を受け、疲弊していることだろう。


 彼女の身が心配だ。

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