第二十六章  わたしは幸せでした

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 八神家で過ごした時間は、わたしにとって何よりの宝物である。



 辛いことばかりだった人生の最期に、ほんのちょっぴりだけ幸せな時間を手にすることができたわたしは、きっと運がよかったのだろう。


 振り返ってみれば、なかなか波乱万丈な人生を送ってきた。


 母と別れ、灰谷家で奴隷のようにこき使われ、そして異母姉妹のドナーとして実父に目を付けられた。


 わたしの人生は「奪われる」ことで大きく流転してきた。


 それがわたしの人生の象徴であり、全てだった。弱いから奪われ、奪い返せないからさらに奪われる。その負の連鎖は、やがてわたしの命まで奪おうとした。しかし、最後の最後でわたしはその連鎖を断ち切ることに成功した。


 奪われるのではない。


 与えるのだ。


 その根本的な意識の違いが、わたしの精神を救った。これはある種の抵抗なのかもしれない。神が定めた「奪われる人生」に対する、わたしなりの抵抗なのだ。


 この世に生まれてきたことを後悔していたあの日のわたしはもういない。


 わたしは今、楽しい。


 幸せだ。


 林檎との日常が、できれば永遠に続いてほしいのだけれど、そればかりは叶わない。


 いつか訪れるであろう、最期の瞬間。


 そこでわたしの人生は終わるけれど、代わりに林檎がわたしの命を継いでくれる。


 林檎の心臓となって、わたしはいつまでも彼女のそばにいることができる。


 胸の手術痕に手を当てるたびに、わたしという人間が存在したことを、林檎は思い出すだろう。わたしと過ごした日々の記憶が、彼女の人生の支えとなってくれたなら、それに勝る幸福はない。




 ただ――




 もし、一つだけ心残りがあるとすれば、それは林檎の成長した姿を見ることができないことだ。

 きっと林檎はこの世界で一番の美人に成長するだろう。その美貌は、この世の男ども全員を虜にし、その心を射貫くはずだ。その様を拝めないのが残念でならない。




 今日もわたしは林檎と共に目覚め、時間を共有し、共に眠る。林檎がやりたいことを一緒にやり、彼女を支え、その成長を導く。

 何があってもわたしは林檎の味方だし、彼女の幸せを守る。



 いつか必ず訪れる、お別れの時がやってくるまで……














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