第二十五章  それからのこと

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 それからのことを話しておこう。


 結局、わたしが勇心たちの会話を盗み聞きしたことはバレなかったようだ。彼らはその後も今までと同じように接してきた。計画が標的に洩れているとも知らずに。

 わたしの生活はあれから何も変わらない。林檎と共に目覚め、彼女との時間を大切に過ごし、そして同じベッドで眠る。それが全てであり、わたしはそれだけで満足だった。


 余計な贅沢もいらない。


 事情を知った上で思い返してみると、勇心は過度にわたしに贅沢をさせようとしていたふしがある。おそらく彼なりに罪悪感を抱いていたのだろう。しかしながら、わたしはそんな同情など不要である。

 林檎に心臓を提供するのは、あくまでわたしのであり、彼らに強制されてるわけではないのだから。いっそのこと話してしまおうか、と思ったが、やめておいた。




 新年――二〇〇九年を迎えてから、三か月ばかりが経った春の宵、大きな事件が起きた。


 夏江はやはり不倫をしていた。

 勇心と夏江は廊下まで声が漏れるほどの大声で互いをけなし合い、その壮絶な夫婦喧嘩は夜中まで続いた。個人的には、彼らの痴話喧嘩などどうでもいい。余計なストレスを林檎に与えないで欲しかった。ベッドの中で震える林檎を抱きしめながら、わたしは朝を待った。


 そもそも勇心だって若い頃にわたしの母と不倫をしてわたしを産ませたのだから、これでおあいこでいいではないか。そんなくだらないことで、林檎を不安にさせないで欲しかった。


 朝になって、まだ眠っている林檎を残し、ベッドから抜け出す。どうやら最悪の結末を迎えたらしい。使用人たちも心配で眠れなかったのか、数人は赤い目をしていた。彼らに勇心の場所を問うと、揃って中庭を示した。

 南棟の裏口から中庭に出る。勇心が立ち尽くしていた。その背中から滲み出る悲壮感は、吹き荒れる春風に溶けて、中庭全体に広がっている。


「夏江さんは?」


 彼はこちらを振り向かず言った。


「出て行った」

「別れたんですか?」

「ああ、離婚が決まったよ」


 朝の寒さからか、それとも他に理由があるのかは判らないが、勇心の声は震えていた。


「林檎のことは? あの子の親権は……」


 わたしはそれだけが気がかりだった。例え妻の不貞が原因の離婚であっても、親権は妻側に渡ることが多い、といつだかのテレビ番組で知った。もし林檎の親権が夏江に渡るようなことになれば、わたしは林檎と離れ離れになってしまう可能性がある。


「安心しなさい。お前たちの親権は俺が取った。過失は全てあの女にある。お前たちは、俺が絶対に守ってやる。何も心配することはないんだ。何も……」


 それは自分に言い聞かせているようにも聞こえた。


 後になって知ったことによると、夏江が逢瀬を重ねていた間男は劇団蝶花の看板役者の男だった。その関係は長く、彼女が劇団員として在籍していた時代から続いていたそうだ。

 どうやらその男と夏江は役者時代から交際をしており、間男の立場に立ってみれば、勇心に夏江を強奪された形となる。それでも夏江を諦めず、今日まで密通を繰り返すのはたいした執着心だ。

 夏江という女にそこまでの魅力があったのかはさておき、林檎から母親を奪ったことだけは許せない。母を奪われる悲しみほど、幼い子供を傷つけるものはないのだから。


 勇心が定めた方針により、林檎には真実を伝えないことになった。

 母親が不貞行為を繰り返した挙句に自分を捨てて出て行った、などという非道な現実がどれだけのストレスと精神的ダメージを与えるかは、火を見るより明らかだったからだ。

 林檎には、「夏江は仕事のため海外へ行かなくてはならなくなった」と伝えた。昨夜の言い争いはそのことに勇心が反対したためだ、とも。


 もちろん林檎はおおいに荒れたが、最終的には納得してくれた。彼女に真実を伝えるのは、もう少し精神が成熟してからだという。その頃にはわたしは生きてはいないだろう。大人へと成長した林檎なら、きっとわたしのことも理解してくれるはずだ。


 夏江がいなくなって二か月ばかりが経った春の終わり頃、入れ違いのように八神家にやって来た者がいた。それはあまりにも意外な再会だった。


「ご無沙汰しております、百合お嬢様。そのお美しい瞳に再びお目にかかることができて、この石田、光栄の極みです」


 石田友起だった。彼と会うのは昨年の夏以来であった。

 もう一年近くが経つ。

 はっきり言ってしまえば、もう記憶に埋もれかけていた。風貌も大きく変わっており、最初は誰だか判らなかった。ぱりっとした紳士服に身を包み、髪を七三分けにしているその様は、まるで八神家の使用人たちのようである。


「どうしてここに?」

「どうしてって、一目瞭然じゃないですか。今日からここで使用人として働くためですよ」

「本当に? 役者の夢はどうしたんですか」

「ひどいことを仰いますねぇ、百合お嬢様は。去年の夏の失態をご覧になったでしょう。あれが僕の実力だったんですよ。あそこで役者としての僕の底が見えてしまった」

「そんな、一度失敗しただけじゃない」

「まあまあ、もう終わったことですから。これからはここで八神家を支える屋台骨として誠心誠意頑張らせていただく所存です」

「はぁ」


 いつも通りのキザな石田に戻っていた。

 最後に会った時は死んだ魚の様な目をし、ゾンビのような足取りで完全に生気を失っていたのに。役者の道を諦めたことで、きっぱり気持ちを切り替えることに成功したようだ。


 それから石田は使用人として働き始めた。役者時代から、仕事に対しては神経質なほど真面目だったので、仕事ぶりに文句は全くなかった。

 わたしが好む紅茶とミルクの割合もあっという間にマスターし、敏腕執事然とした働きぶりを見せた。まるで執事という役を舞台上で演じているかのように、石田は日々の勤めをこなしていった。


「それにしても、どういう成り行きでここで働くことになったんですか?」


 ある初夏の昼下がり、図書室で清掃中の石田と偶然鉢合わせたわたしは、気になっていたことをぶつけた。彼は棚を拭く手を止め、向き直る。さっぱりとした表情だ。


「役者としての限界が見えたからでございますよ、百合お嬢様。自分の様なみそっかすは、輝かしいスポットライトを浴びるべき人間ではないのです」


「あの、わたしといる時は普通に話していいですよ」


「あ、そう。よかったぁ。堅苦しいのって苦手なんだよねぇ。まっ、百合お嬢様のような可憐な美少女相手ならいくらでも気取ることができるけれど」


「そういうのいいから」


 からかわれているような気がしたので、わたしは石田に鋭い視線を送った。


「ああ、その怒気を孕んだ瞳も美しい……ああ、いや、怒らないでくださいよ。別にふざけてるわけじゃあないんですよ。はいはい、話しますよ。僕が劇団蝶花を去ったのはもうご存知でしょう?」


「ええ」


「ポカをやらかし、夏江さんの逆鱗に触れてしまって、もう僕の居場所はあの劇団にはなかったんです。役者としての自信っていうものが、音を立てて崩れてしまった」


「一度失敗したくらいでなんですか。世の中には、役者になりたくてもなれない人だってたくさんいるでしょう? もうちょっと頑張ってみようって思わなかったんですか?」


「うーん、耳が痛い」


 石田は両耳を押さえるような仕草をした。


「辞めてからは今まで何をしてたんです?」

「ぶらぶらしてました。やる気というものが完全に消え去ってしまって、文字通りぶらぶらと。貯金を崩しながら、流されるように生きてましたよ」


 そういうのは、わたしの一番嫌いなタイプの人種である。わたしから母を奪った男も、そんなふうにだらだらと時間を食いつぶすように生きていた。


「あの頃の僕は本当にどうかしてた。勇心さん――旦那様に喝を入れてもらって、ようやく目が覚めたんです」

「えっ、お父さんが?」

「ええ。あの方は僕のことを気にかけてくださったようで、頻繁に連絡をしてくださいました。劇団蝶花に籍を置いていた頃から、何かと面倒を見ていただいていて、本当の父親のように親身になって……あ、僕、父親を亡くしてるんです」


 それは初耳だった。


「夏江さんは自分が説得するから、もう一度、一からやり直さないかって。でも、僕は完全に自信を無くしてしまっていて、勇気が出なかった。舞台に上がることを想像しただけでも吐き気を催してしまって」

「それで?」

「芝居がダメなら、使用人として働いてみないか、とお誘いいただいたんです」


 勇心は石田のことをそんなに気に入っていたのか。それにしては、話の流れが雑なような気がするが……


「とまあ、そんな事情で僕は今ここにいるわけです。それはそれとして、百合お嬢様。今度ご一緒にドライブでもどうですか? 富士急ハイランドにでも行きましょうよ」


 まぶしい笑顔で石田は言った。彼の登場によって、わたしの周りはまた一段と賑やかになった。


 石田はいい意味で肝が座っているというか、図太い神経の持ち主だった。ことあるごとに雇い主側であるわたしにアプローチをかけてくる。遊園地や映画のチケットを携えて、気取った口調でわたしを誘う度胸があるのなら、もう一度舞台に上がるくらいわけないだろうに。不屈の心は恋愛に対してのみ発揮されるようだ。


 何度断っても、へこたれる様子がない。あまりにもしつこいので、一度くらいは誘いに乗ってやってもいいか、と思い始めているわたしだった。

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