第二十四章  命のバトンを繋いで

 1


 時が止まったような静寂が場に満ちた。城戸は今何と言ったのだろう。



 心臓?



 スペア?



 いったい何のことだ。判らない。まるで意味が判らない。









「おいおい、もう少し言い方というものがあるだろう」


 勇心が軽々しく言う。


「事実なんだから仕方あるまい」


 応える、城戸も声もまた軽い調子だった。


 体が熱い。全身に汗をかいているようだ。目の前がぐるぐると回り始めたのに、意識はしっかり保たれているのが不快だった。







「百合ちゃんはこのことを知っているわけじゃないだろう?」







 なぜわたしの名前が出る?







「当たり前じゃないか。伝えてどうする。何も知らない方がいい」








 何を知らない方がいいのだ?







「あの子には心底同情するよ」







 同情される筋合いなどない。







「だからこそ、百合には幸せな人生を歩ませてやらんとな。それが唯一の罪滅ぼしだ。例え短い人生でも、灰谷の家で肩身の狭い思いをするより、ずっとましだ。彼女が願ったこと、欲したものは全て叶えてやる。それが父親としての俺の義務さ」



「殺されると判っている家畜を、出荷させるまでは愛情を込めて世話する酪農家のようだな」



「悪趣味な例えをするんじゃあない。城戸、判っていると思うが、これは君の協力が不可欠なんだからな。死亡診断書の偽装に、百合の心臓の摘出、そして林檎への移植。全て君の息がかかった病院でなくては行えない」



「お前は昔からそうだ。何かあるとすぐ私を巻き込む」



「ふっ、持つべきものは悪友だな」



 乾いた笑い声が反響する。



 体が動かない。



 なのに、今すぐにでも暴れ出したい衝動が全身を駆け巡る。突き付けられた真実は、どこまでも残酷で、どこまでも合理的で、どこまでも説得力があった。



 この屋敷に引き取られた夜に感じた疑問に対する、明確なだった。



 ――なぜ今になってわたしを引き取ったのか。




 林檎の心臓ドナーとして白羽の矢が立ったからだ。




 ――なぜ夏江は妾の子であるわたしを歓迎したのか。




 これで娘の命が助かるからだ。




 移植手術の希望が持てない林檎のために、確実に移植できる心臓としてわたしは連れて来られたのだ。

 もし林檎のことがなければ、勇心はわたしを引き取ろうとも思わなかったに違いない。



 わたしはスペアだった。



 ただ、林檎の死後、八神家を継ぐ後継者としてのスペアではない。彼らが求めているのは、わたしの胸の奥にある、握り拳ほどの小さな肉の塊だけ。



 無限大な絶望感がわたしの心を打ちのめす。



 やはりわたしは奪われ続ける星の下でしか生きられないのか。母を奪われ、灰谷家で人間としての自由とたった一人の友を奪われ、そして、最後には心臓を奪われて死んでいく。



 なんてちっぽけで、くだらない人生なのだろうか。








 気がつくと、林檎の部屋に戻っていた。わたしが会話を盗み聞きしたことは気づかれていないようだ。いや、気づかれたとしてもどうでもいい。困るのはあちらだ。



「わたしは……スペア……」



 ベッドの上の縁に座る。途端に全身の力が抜け、わたしは背中からベッドに倒れた。


 父親は――勇心はわたしを愛していなかった。



 彼が愛していたのは林檎だけで、彼がわたしに求めていたのは、わたしの胸に埋まっている心臓だけなのだ。それに気づかぬまま、今日までのうのうと生きてきた自分が馬鹿らしい。


 なんて滑稽なのだろう。


(……林檎)




 しかし、わたしは安堵してもいた。



 よかった。



 これで林檎は助かるではないか。



 代わってやりたいと願いながら、なぜこの発想に至らなかったのか、不思議でならない。



 海外での移植手術は絶望的で、国内でも確実に移植手術が受けられる保証はない。八方ふさがりに見えた現状を解決する策は、最初から頭上にぶら下がっていたのだ。



 人には生まれた理由があると、城戸は言った。それを全うできたなら、たとえ短くても、それは素晴らしい一生だとも。



 今ならその意味が判るような気がする。



 林檎の幸せを守ることこそ、わたしが生まれた理由だ。なら、わたしはそのために何をすべきか。林檎のために、わたしには何ができるのか。



 力もない。


 富もない。 


 知恵もなければ名声も社会的地位もない。



 そんな小さすぎる存在であるわたしが林檎にしてあげられることは、この心臓で彼女の命を繋ぐことだけ。

 そしてそれは、わたしだけにしかできないことだ。その結果、わたしが死んでしまうとしても、林檎のためならきっと怖くない。



 発想を転換すればいい。



 汚い大人たちにのではない。わたしが自分の意志で林檎にのだ。



 体を起こし、ベッドの中に潜る。林檎の体温で布団の中は温まっていた。彼女に身を寄せ、ぎゅっと抱きしめる。


「ん、百合お姉ちゃん?」


「あ、起こしちゃった? ごめんね」


「んー、お休みなさい」


 林檎は目を閉じ、泥のように眠ってしまった。この小さな命を守るためなら、わたしは死んでも構わない。


「愛してるよ、林檎」


 耳元でそう囁き、顔を離すと、小さな雫が林檎の頬に落ちた。

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