第十二章  林檎は愛に飢えている

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 冷えてきたので、中に戻ることにした。


「寒―い」


 寒さから逃げるように、林檎は早足で裏口の扉に飛びついた。夏江の忠告が頭をよぎる。


「林檎ちゃん、走っちゃダメって……え?」





「はぁ、はぁ」




 林檎はほんの十数メートル走っただけだった。時間にすれば、五秒と走っていない。にもかかわらず、彼女は長距離走を終えた後のように、大きく荒い呼吸を繰り返していた。


「ちょっと、林檎ちゃん、大丈夫?」


「うん、大丈夫だよ?」


 そうは言うが、この様子は尋常ではない。重大な病の発作だろうか。それとも呼吸障害かもしれない。すぐに誰かを呼ぼうと林檎に背を向けたが、彼女はわたしの手を握ってその場に引き留めた。


「ダメ。ママに怒られちゃう。内緒にして。お願い」


「でも……」


「お願い、百合お姉ちゃん」


 林檎は目を潤ませ、懇願した。呼吸はだんだん落ち着いてきているが、わたしのような素人が判断していいものか。

 迷った挙句、彼女の意思を尊重することに決めた。夏江に林檎を走らせないようにと頼まれていたのに、最後の最後で目を離してしまった。これが夏江に知れれば、わたしに対する心証は悪い方向に傾くだろう。要は、自分の監督不行き届きを隠蔽するのだ。


 の思いが、わずかに林檎の身を案じる気持ちに勝った。


(これも幸せのため。敵は作ってはいけないの)


 そう自分に言い聞かせるが、罪悪感が体をどんと重くした。


 幸い、誰にも見られていなかったので、林檎が落ち着いてから手を繋いで二階へ上がった。疲れて眠いと言うので、林檎を部屋まで送り届ける。彼女の部屋はわたしの部屋と近い場所にあった


「ありがとう、百合お姉ちゃん」


「いいよ」


「またあとで遊んでね」


「うん」


 自室に戻り、ソファーに倒れた。


 林檎の様子は明らかにおかしかった。いくら幼い子といえども、少し走っただけで、あんなに息が上がるはずがない。外の寒さのせいでもないだろう。

 何かしらの病気が林檎の体を蝕んでいるに違いない。食堂で夏江が言っていたではないか。「思いっきり走っちゃいけませんよ」と。あの忠告はこの事態を見越していたからなのだ。


 その後、林檎は何事もなかったように昼食の席に顔を出した。勇心と夏江は出払っており、彼女と二人きりの食事だった。


「もう大丈夫なの?」


「うん」


「苦しくない?」


「苦しくないよ」


 まぶしい笑顔が返ってきた。強がっているふうには見えないし、彼女の様子は健康そのものだ。杞憂だろうか。


「あ、さっきのは、ママには内緒だよ。しー」


 口元に人差し指を当て、釘をさすように林檎は言った。

 それからわたしは、林檎の体のことを勇心や夏江に尋ねようとしたが、中々機会に恵まれなかった。

 二人とも多忙なようで、家にいる時間はさほど多くないらしい。家を空けることも多く、特に夏江は頻繁に外出していた。


 林檎が早くにわたしに懐いたのも、日常的な親の不在が原因なのかもしれない。そのことに気づくと、林檎への親近感が増した。彼女もまた、愛情に飢えていたのだ。

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