第十一章  林檎は林檎が大好き

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 わたしは走っている。どこまでも続く闇の中を走っている。


 後ろを振り返ると、闇の中にはっきりとした輪郭を持った黒い影がいる。わたしはそいつから逃げているのだ。


 走る、走る。体力の続く限り、走り続ける。


 しかし、どれだけ必死に足を動かしても、影をまくことはできない。どころか、その差はどんどんと縮まっていく。

 影の位置を確認しようと振り向くたびに、影が大きくなる。ついに、わたしは捕まってしまった。押し倒され、影がわたしの上にのしかかる。そうして、わたしは見た。わたしを追っていた影の正体は、あの灰谷光緒だった。恐怖で体が硬直する。怒りに満ちた光緒の顔は、まるで鬼のようだった。右目がある場所は空洞になっていて、そこからだらだらと血が噴き出している。


「よくもやってくれたな」


 聞き慣れた、ねっとりとした声。


「俺の右目を見ろ」


 生暖かい鮮血がわたしの視界を覆う。


「お前がやった。お前のせいだ。お前の――」


 大量の血が洪水のように周囲を満たす。たまらず、悲鳴を上げた。


「いやあああ――はっ……?」





 夢だった。額に手を当てると、びっしょりと寝汗をかいていることが判った。


「はあ……はあ」


 ベッドサイドの時計を見ると、時刻は午前七時だった。窓に視線を移すと、白んだ空が見える。こんな遅い時間に起きたのは久しぶりだった。


 八神家で迎える最初の朝。そろそろとベッドから出て、着替えを済ませた。隣の部屋に移ってソファーに座るも、落ち着かなかった。何もせずに時間だけが過ぎていく感覚は新鮮であり、もったいないとも思った。


 廊下に出てみる。この際だ、この館を探検してみよう。そうして気の向くまま、わたしは館内を歩いて回った。廊下も空調が効いていて、実に快適だった。昨日の記憶を頼りに食堂まで歩く。すると、数人のメイドたちが朝食の準備をしている途中だった。


「おはようございます、百合お嬢様」


 わたしの姿を認めると、彼女たちは一斉に頭を下げた。


「あ、どうも、おはようございます」


 ぎこちない挨拶を返す。やっぱりお嬢様待遇は気恥ずかしくてまだ慣れない。

 昨日と同じ椅子に座ると、何も言ってないのにメイドが紅茶を運んできた。


「あ、ありがとうございます」


 恐縮した思いで頭を下げ、カップを手に取った。一口飲むと、体が芯からじんわりと温まる。


「はぁ」


 まるで天国にいるような気分だった。もしかすると、わたしはまだ夢の中にいるのかもしれない。本物のわたしはあの四畳半の寒い部屋で、震えながら寝入っているのではないか?


 いや違う。これは紛れない現実だ。


 安穏を噛みしめるように紅茶を飲み干す。すると、すぐに二杯目が注がれた。そうして計三杯の紅茶を楽しんだところで、夏江と林檎が手を繋ぎながらやってきた。




「百合お姉ちゃん、おはようー!」




 林檎はぱたぱたと走り寄り、わたしの隣の椅子に飛び乗るようにして座った。

 

「お、おはよう」


 夏江はその様子を微笑ましそうに眺めながら、わたしの向かいに腰を下ろす。気品に満ちたその所作にわたしは目を見張る。朝の挨拶を交わすと、夏江は妙に芝居がかった調子でこう言った。


「この子ったら、あなたが来るのをずっと楽しみに待っていたのよ。お姉ちゃんができるのよって教えた時から、いつ来るの、いつ来るのって。ねー」


「ねー」


 首を動かし、林檎と視線を合わせる。よく見ると、子供ながらに整った顔立ちをしていて、どきりとした。


「お姉ちゃんができて嬉しいのは判るけど、林檎、さっきみたいに思いっきり走っちゃいけませんよ」


「はーい」


 母娘のやり取りを眺めていると、幼い頃の、母との記憶がうずく。母は今どこで何をしているのだろうか。

 朝食が運ばれてきた。わたしと夏江の前に並んだのは和風の朝食だが、林檎には洋風の食事が給仕された。なぜ、と疑問に思ったが、夏江も林檎もいたって平然としている。単に林檎が和食を苦手としているだけかもしれないので、深く考えるのはやめにした。

 デザートに出てきたのはアップルパイで、これは皆同じものが給仕された。林檎は拙い手つきでフォークをパイに突き刺し、ぽろぽろ中身をこぼしながら齧りついている。


「あのね、この林檎はね、林檎のなの」

「え?」

「林檎の林檎なの」

「は、はぁ……」


 見かねた夏江が説明する。


「うちの庭で林檎の木を栽培してるのよ。林檎が生まれた記念に、林檎の木を植えたの。これはそこで収穫した林檎を使ったアップルパイなのよ。そう言いたいのよね、林檎」


「うん。あとでお姉ちゃんにも見せてあげるね」


 わたしたちが食事を終えたタイミングで、勇心が眠そうな顔でやってきた。彼のところには、和風の朝食が運ばれていた。


 その後、わたしは林檎の案内で例の林檎の木を見ることにした。それは中庭の奥にあるらしく、玄関ホールの裏口から靴に履き替えて向かった。

 外に出る直前、夏江が林檎に走らないようにと注意をしていた。それからわたしの方に向き直って、林檎を頼みます、と言った。これまで常に笑顔の夏江だったが、この時だけはその笑顔が消えていた。過保護というよりも、迫りくる危険を察知しているかのような、こちらの不安を掻き立てる表情だった。

 中庭はとても広く、芝が一面に敷かれていた。北端に林があり、残る三方を建物に囲まれている。林檎の木は林の先にあるという。少し視線を上げれば、日本一の高さを持つ富士山が臨める。雪で覆われた頂上部は、白い帽子をかぶっているようにも見えた。


 林檎の先導で林へと向かう。

 開放感のある中庭を歩き詰め、林に入る。ひっそりとしていて肌寒かったが、空気は新鮮だった。前庭にあった林とは違い、道は整備されていない。が、人が踏みしめた跡の様な小径が残っていた。夏江の言いつけ通り、林檎の挙動には目を光らせた。


「走っちゃダメだってさ」

「判ってるよ。こっちこっち」


 少し進むと、日当たりのいい開けた場所に出た。そこに一本の木があった。幹のしっかりした大きな木だが、枝には実はおろか葉すらついていない。まるで痩せこけた老人のように、その木は佇んでいた。その様子に、林檎は少しがっかりしたようだった。


「あれぇ、葉っぱがない」

「今はお休み中みたいね」


 林檎の収穫期は秋から冬にかけてと聞く。今はもう時期ではないのだ。木の手前にベンチがあり、そこにかけた。


「百合お姉ちゃん、林檎はどうして赤いか、知ってる?」

「ううん、教えて」

「あのね、お日様の光をいっぱい浴びると、林檎は赤くなるんだよ。だから、いらない葉っぱを切って、お日様に当たるようにするの」

「へぇ、そうなの。よく知ってるね」

「勉強したの。林檎は林檎が大好きだから」

「わたしも好き。おいしいよね」

「うん、林檎はね、しゃりしゃりしたのが好き」

「しゃりしゃり……ああ、すりおろしたものね」

「うん、スプーンで食べるの」

 林檎はいい子だった。わたしをお姉ちゃんと呼び、慕ってくれる。半分しか血が繋がっていない異母姉妹だけれど、妹という存在はわたしに不思議な高揚感をもたらしてくれた。同時に、ある種のがその裏に隠れていることをわたしは否定しない。


 八神家の正式な跡取り娘である林檎と仲良くしていくことは、将来的なわたしの幸せにも繋がるため、非常に重要なのだ。


 夏江の気が変わって、わたしを八神家から追い出そうとすることだって、いつかはあり得るかもしれない。夏江がなぜわたしを歓迎するのか、その本心はいまだ不明だが、今のうちに林檎に取り入って、娘の方を味方につけておけば、将来的にわたしの立場が脅かされる心配も少なくなるだろう。


 全てはわたしの幸せのため。


「ねえ、百合お姉ちゃん」

「なあに?」

 林檎はもじもじと体を揺すりながら、恥ずかしそうに言った。

「膝に乗ってもいい?」

「いいよ」

「やったぁ」


 林檎を膝の上に乗せる。こういう体験は生まれて初めてであるため、誰かと比べることはできないが、林檎は驚くほど軽かった。このまま腋の下に手を入れれば、わたしの力でもひょいと持ち上げることができそうだ。そういえば、私が彼女くらいの年齢の時、母に抱っこをねだったら、重いからと断られた記憶がある。ああ、また母のことを思い出してしまった。


「百合お姉ちゃん、悲しいの?」


「え?」


 林檎は半身を捻ってわたしを見つめている。


「泣いてるよ。どこか痛いの?」


 自分でも気づかぬ内にわたしは涙を流していたらしい。そういえば、やけに頬に当たる風が冷たかった。


「いい子いい子してあげるね」


 そう言って林檎は膝立ちになり、不器用な手つきでわたしの頭を撫で始めた。彼女の小さな手が懸命にわたしを励ましている。凍り付いたわたしの心を溶かすように。


「ありがとう、もう平気よ」


「本当? でもまだ泣いてるよ」


「いいの、これは嬉し涙だから」


「ええっ? 嬉しいの?」


 林檎は困惑したように目を丸くした。


「嬉しいのに、泣いてるの? え、なんで?」


「うん、ありがとう……ありがとう」

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