第十三章  神は平穏を許さない

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 林檎の身を蝕む悪魔の存在を知ったのは、八神家に引き取られて一週間が経ってからだった。


 十二月に入り、本格的に冷え込んできた。その日も朝から厳しく冷え込み、乾いた風がひゅうひゅうと吹き荒れていた。

 この頃になると、わたしは八神家の環境にも慣れ、邸内の勝手もだいぶ判ってきた。

 八神邸の本館はL字型の建物で、縦の棒にあたる西棟に、わたしを含めた八神家の家人たちが住んでいる。が、その実数はわたし、勇心、夏江、そして林檎の四人だけである。

 昔は八神の一族の人間が多く住んでいたらしいが、今は空室が目立つ。横棒にあたる南棟はいわば客人を迎える顔の役割を果たしており、玄関ホールを始め、客室や応接室、娯楽室に図書室など、様々な種類の部屋が用意されている。不自由のない生活をさせて貰っているが、図書室の存在は最近の娯楽に疎いわたしにはありがたいものだった。


 東側にあるのは使用人が住まう宿舎で、これは本館と隣接していない。本館がわりかし古い建物であるのに対し、この宿舎は真新しい印象を受けた。二つの建物は吹きさらしの渡り廊下によって結ばれている。

 その日、勇心の友人が正午過ぎにやって来た。その時わたしはちょうど林檎を連れて南棟の図書室へ向かう途中だった。あれ以降、林檎はおとなしく過ごしており、発作や息切れが起こることもなかった。


「あ、先生」


 玄関ホールの真ん中あたりで林檎が足を止め、玄関にいる男に向けて甲高い声を投げた。先生と呼ばれた彼はたった今到着したらしい。泉に荷物を任せているところだった。


「知ってる人?」

「うん、先生だよ」

「やあ、こんにちは」


 わたしたちに気づいたようで、男はひょいと片手を上げた。痩せぎすの老人で、落ち窪んだ眼孔が少し恐ろしい。髪はほとんど抜け落ちてしまっているが、代わりに立派な口ひげを蓄えている。

 わたしたちが挨拶を返すと、男はゆっくりと歩み寄って、林檎の前でしゃがみ込む。


「林檎ちゃん、元気かな?」

「うん、元気」

「胸は苦しくないかい?」

「うーん、ちょっと……えっとね」林檎は両手をすり合わせながら「たまに、爆発しそうな感じになる」


 爆発という表現に、わたしは肝が冷えた。


 先ほど林檎は彼のことを「先生」と呼んだ。そして今の会話……やはり、林檎は何かの病に侵されているのだ。となると、彼が林檎の主治医に違いない。彼女の無邪気な笑顔の裏には、彼女にしか判らない苦悩や苦痛があるのだ。そのことを考えると、なぜか胸が痛くなった。


 林檎との会話が一段落つくと、男は腰を上げてわたしに向き直った。


「君が百合ちゃんだね。初めまして。勇心から話は聞いているよ。私は城戸きどまこと。よろしくね」

「お父さんのご友人ですか」

「ああ、やつとは長い付き合いだ。林檎ちゃんのこともあるしね」


 城戸は鶏がらのような筋張った手を差し出した。その手を握り返しながら、わたしはさりげなく切り出す。


「どうも、よろしくお願いします。あの、ちょっとお訊きしたいことが」

「何かな?」

「林檎のことで……」


 わたしがそこまで言うと、城戸も察したらしい。彼は神妙に頷いて、


「あとで時間を作るよ。そこで詳しく教えよう。君ともゆっくり話をしたいし。そうだな、じゃあ二時に私の部屋に来てくれるかな」

「判りました」


 そこで一度別れ、午後二時五分前に城戸の部屋の扉をノックした。


「どうぞ」

「失礼します」


 暖房をガンガンにかけているようで、室内はむっとした熱気に包まれていた。勧められるまま、わたしは彼の向かいに腰を下ろす。


「いやあ、今日は寒いねぇ。こんな山の奥だと、なおさらそう感じるよ。百合ちゃんは平気かい? たしか、まだ十三歳だってねぇ。いやあ、若いってのはいいなぁ」

「はあ」

「ついさっき、勇心から詳細を聞いたよ。大変な苦労をしてきたんだってねぇ。せっかく八神の血を引いているというのに、運命とは酷なことをする」

「城戸さんはお医者様なんですよね?」

「循環器内科が専門だ」

「ここへはよくいらっしゃるんですか?」

「週に一度ね」

「そんなに」

「なにせ林檎ちゃんの様子を見てやらなくちゃあいけないから。百合ちゃんが訊きたいのも、そのことだろう?」


 城戸は血色の悪そうな浅黒い肌を撫で擦りながら、わたしを見据えた。口調は軽いが、その目には異質な圧迫感を感じた。


「はい。林檎は、あの子は病気なんですよね?」







「そうだ」


 城戸ははっきり言い切った。わたしはこみ上げてくる思いを必死に抑え、彼の口を注視した。暖房が効きすぎているからか、それとも緊張からか、喉がからからに乾いていた。


「あの子は心臓が悪いんだ」


 ある程度の予想はしていたが、その事実はショックだった。一つ一つの単語が、わたしの心を重くする。


「心臓……命に関わる病気なんですか?」


 城戸は無言で頷く。


「そんな……」


「拡張型心筋症と呼ばれる病気で、難病に指定されている。心臓が全身に血を運ぶためのポンプの役割を担っているのは知っているね。収縮と拡張を繰り返し、全身に血液を送るんだ。簡単に説明すると、心臓は四つの部屋から成り立っている。その内、ポンプとして最も重要な役割を担う左心室の筋肉がだんだんと伸びて薄くなって、拡張し過ぎてしまうんだ。そうすると、今度は上手く収縮ができなくなって、収縮・拡張のバランスが崩れてしまう。結果として、ポンプ機能が低下し、全身へ十分に血を運ぶことができなくなる。そうなると、ちょっとした運動で息が切れたり、動悸が起きたり、疲れやすくなったりする」


 走った後、苦しそうに息を乱していた林檎の姿が思い出された。


「で、でも、治るんですよね?」


「治らんよ。心不全の症状が起きてからの五年生存率は五〇%。薬で延命することもできなくはないが、それも持って十年だろう。根本的な解決にはならない。今のままなら、十五歳まで生きられるかどうか……」


「じゃあ、林檎は――」


 死を待つだけだというのか。


「手がないわけではないさ。自前の心臓がダメなら取り換えてしまえばいい。つまり、心臓移植だね。だが、これもいくつか越えなくてはいけないハードルがある。心臓移植をするということは、心臓を提供してくれる誰かドナーが必要になるわけだ。しかしながら、ここで第一のハードルが立ち塞がる。二〇〇七年現在、十五歳未満の子供の臓器提供は法的に認められていない。移植可能な心臓は、林檎ちゃんには少しばかりが大きいんだ」


 城戸は握り拳を作って自分の左胸に当てた。


「だったら、移植できる体に成長するまで薬で病気の進行を遅らせれば――」


「そこまで彼女が生きていける保証はどこにもないよ。急性心不全で突然死んでしまうことだってあり得る。仮に生きながらえることができたとしても、第二のハードルが立ち塞がる」


「なんですか?」


ということさ。同じように心臓の提供を必要としている子供たちはこの日本に何人もいるんだ。ただでさえ心臓のドナーは少ない。手術可能な年齢に達したとしても、確実に移植手術が受けられるわけではない。仮に手術にこぎつけたとしても、第三のハードルが待っている。移植手術というのは、自分の体に異物を入れる行為だからね。手術後、拒絶反応が起こることもある」


 城戸はそこで言葉を切って、煙草に火を点けた。ゆらゆらと、紫煙が天井の換気扇に吸い込まれていく。


「ただ、先の二つのハードルをショートカットする方法もないわけではない。すなわち、海外で移植手術を受けるという方法だ。ただこれは移植待ちをしている海外の子供たちの列に割り込んで、強引に手術を受けさせるというものだから、倫理的にも問題があるし莫大な手術費用も掛かる。まあ、金の方は問題ではないだろうがな」


 城戸は含みのある言い方をした。


「じゃあ、林檎はこのまま死んでしまうんですか?」


「人はいつか死ぬさ。どんなに富を築き、名誉を得ても、死だけは避けられない。大切なのは死ぬまでに何をしてきたか、どんな人生を送ってきたか、ということさ。人には人それぞれ、生まれてきた理由というものがあると私は思っている。しかし、大半の人間はそれに気づかないまま流されるように日々を生きている。何のために生まれ、何をして生きるのか。それを自分で見つけて、人生の全てを注ぐことができたなら、例え短くても、その人の一生は素晴らしいものだと思うよ。長い間不妊に悩み、不仲だった八神夫妻は、彼女の誕生によって強い絆を手に入れた」


「それが林檎の生まれてきた理由だとでも言うんですか?」


「さあ、それは私には判らないさ。でも、あの子に注がれている愛情は本物だよ。あの子は二年前まで東京の病院に入院していた。八神の本邸に移ってきたのも、狭苦しい病室で生涯を終えるよりも、綺麗な空気のある場所で最期の時間を楽しく生きて欲しいと、両親が願ったからだ」


「最期のって……移植手術さえできれば、林檎は助かるんですよね」


 気づかぬ内に声を荒げている自分に気がつき、わたしは唇を噛んだ。


「あの子が手術を受けることができるかどうかは神の采配に任せるしかない」


「運任せってことですか?」


 わたしの質問には答えず、城戸はガラス製の灰皿に灰を落として言った。


「……あの子は幸せな子だよ」

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