3、

 市村治を再び目にしたのは、駅前のケーキ屋だった。

 スプリングコート一枚では寒い日だった。久しぶりに日が出ていたけれど、日陰にはまだ溶け残った雪が高く積もっていた。

 今日に限って足首の出るスラックスを履いていたことに後悔しながら、わたしは買い物の荷物を抱えていた。バスに乗るのが怖いから、わたしはいつも駅から家まで歩いて帰る。

 自分へのねぎらいと、おばあちゃんへのお土産に、たまにはケーキでも買おうか。そう思い、普段は足を運ばないケーキ屋まで向かった。

 洋菓子店オリエント。駅ビルのテナントに入っていたそこは、あまり廉価ではないけれど、お洒落でおいしいケーキがたくさん売っている。たまの贅沢にはうってつけだった。

 贅沢をしよう、と思い立つと、それだけで心が弾んだ。ショーウインドウに並ぶケーキは、小ぶりで可愛らしい、それでいて上品なものばかりだった。洋酒の効いたチョコレートケーキと、おばあちゃんの好きなチーズケーキとを選ぶ。ホワイトチョコレートを基調とした新作も美味しそうだ。見たところ、桜モチーフらしい。話題に乗るのが早いことだ。

 ケーキの箱を受け取り、踵を返そうとすると、見覚えのある人影が目前にあった。

 市村治だった。

 思わず固まった私と同様に、彼も驚いているようだった。

 強情な薬屋、と彼が呟いたのは、聞かなかったふりをした。わたしのことを覚えていてくれたのは、少し、嬉しかったけれど。

 首元がよれたロンTとカーディガンといった出で立ち。昔はもっと華奢で小柄だったのに、今では随分と背が高い。女にしては高身長のわたしと比べても、頭半分くらいの差がある。

 気まずい沈黙が流れていた。

「ケーキ、お好きなんですか?」

 とりあえずそう切り出してみたものの、「いや……」と曖昧な返事しか返ってこなかった。

 口数が少ないと思うのは、わたしに対する興味のなさのあらわれかもしれない。

 何か物悲しさを抱えたまま、それじゃあ、と引き返そうとした時。彼が遠くで何かを目に留めた。はっとしたような顔になる。

「よければ中でお話ししましょう。お時間ありますか」

「え?」

 急な申し出に、わたしは戸惑った。さっきまであんなにつれない態度だったじゃないか。不審がるわたしの腕を引き、彼が耳元に口を寄せる。思っていたよりも強い力にびっくりする。

「……後ろにさっきから妙な男がいる。振り返らずに、いいから入って」

 小声でそう言うと、相変わらずの歩き方のまま、彼はさっさと店内に入って行ってしまう。わたしも追いかけるように中に入った。後ろを伺いたかったけれど、好奇心より恐怖心が勝って、振り返れなかった。


「強引なことをしてすみません。最近物騒なニュースが増えていますから、念のため」

 喫茶スペースの中。彼は静かにそう言って、ゆっくりと椅子を引く。杖をついていては座るのも大変そうだったが、手馴れた様子だった。

 物騒なニュース。そういえば、今朝、婦女暴行のニュースが報じられていたと思い出す。

「好きなものを頼んで。奢りますから」という彼の言葉に甘えて、レモンティーと桜のケーキを頼んだ。何かを口に入れられる気分ではないことに、店員がケーキを持ってきてから気が付いた。

「……あの、妙な男、というのは」

 レモンの乗った紅茶がほのかな湯気を立てている。動揺した様子もなく、彼はブラックのままのコーヒーに口を付ける。一瞬だけ伏せた目の、生えそろった睫毛が、頬に影を落とす。

「ハンマーらしきものを持って貴女の後ろをふらついていました。ああいうのは見境なく弱そうな人間を狙うから、気を付けた方がいい」

「はあ……」

 何と答えるのが正解かわからず、おざなりに返事をした。ありがとうございます、だろうか。「弱そうな人間」呼ばわりされて、確かに事実ではあるのだけれど、いい気分にはならない。

 いただきます、と言って、とりあえず紅茶に口をつける。

「帰りはタクシーを呼んだ方がいいですよ」

「そうします……」

 それきり、彼との会話が途絶えてしまう。気まずさから、紅茶を飲んでいるふりをしながら、話題を探した。

 ――それにしても。

 なんだか妙な気分だった。少女の頃、遠い憧れだった人が、わたしの目の前でコーヒーを飲んでいる。薬をたくさん買おうとした時には危なげな人だと思っていたのに、目の前にいる彼の落ち着きようも気になった。あの時とは随分雰囲気が違う気がした。

「市村治さん、ですよね」

 気づくとそう口走っていた。

 返事は返って来ない。わたしの存在を無視するように、彼は再びコーヒーに口を付ける。

 ちくりと胸に痛みが走る。この人は、自分が市村治ということで嫌な思いをたくさんしてきたのかもしれない、と思った。無神経なことを言ったかもしれない。

「……それが?」

 脳内反省会の途中で、彼がさらりと言った。

 彼の目は怪訝そうだった。気圧されそうになるけれど、わたしは口にする。

「わたしのこと、覚えていませんか」

「覚えているも何も……」

 今度こそ彼は不審そうな顔をしたが、すぐにはっと目を見開いた。


 ――彼にとっては取るに足らなくても、わたしにとって彼は特別だった。単なる信奉じゃない。メディアで彼の姿を目にしたとき、わたしはたまらなく嬉しかったのだ。

 東京で母を見つけてくれたあの人だと、すぐにわかったから。


「わたし、十三歳の時東京にいたんです。ミヤさんのところでお世話になっていました」

「ああ……待って、覚えてる。確か、バスジャックの」

 バスジャック、と聞いて、ぴしりと背筋が凍る。もう十何年も前のことなのに、あのひどい事件のことは、今でもはっきりと思い出せる。

 彼は額に手を当て、何か考え込んでいた。さっきまでの淡白な表情とは打って変わって、何か深刻そうな顔つきだった。

 空気が重々しい。

「懐かしいですよね、このケーキ屋さん。あの頃、泣いているわたしに、ミヤさんがよく出してくれたんです。パパの余りものだけど、よければどうぞって。だから今でもよく来るんです」

 誤魔化すようにまくしたて、ティーカップを傾ける。紅茶は早くもぬるくなり始めている。

「……君の名前は?」

 額に手を当てたまま、彼が尋ねた。

「菊池、薫です」

「ああ……」

 色んな感情の混ざった溜息。「生きていたんだね。よかった」と、言葉に反して困ったような顔で、彼は言った。


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